むかちんの歴史日記

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むかちん歴史日記222 世界に影響を与えた思想家、学者、知識人をめぐる旅行シリーズ② 浄土宗の開祖~法然

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

今日は世界に影響を与えた思想家、学者、知識人をめぐる旅行シリーズの第2弾!

浄土宗の開祖

 

法然(1133-1212)

 

を紹介します(≧▽≦)

 

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%84%B6

 

法然は1133年に現在の岡山県で誕生します。

1141年、法然が9歳のときに父が土地関連でもめて、夜討ちで殺害されてしまうが

父の遺言により仇討ちを断念し、母方の叔父の僧侶、観覚のもとに引き取られます。

 

法然の僧侶としての才覚に気づいた観覚は、出家のための学問をさせ、

当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を法然に勧めます。

 

1145年、法然比叡山に上り、源光に師事します。

1147年、得度し、授戒を受けます。

18歳で法然房という房号源空という名前を授かります。

 

1175年、43歳のときに、専修念仏を奉ずる立場に進んで、新たな宗派である浄土宗を開宗します。

浄土宗は南無阿弥陀仏を口にして唱えれば、必ず仏の救済を受けて平和な毎日を送り、浄土にいくことができる、という他力本願の教えです。

 

この念仏による往生を専修念仏といいます。

 

この浄土宗の教えが広まっていくにつれ、

迫害も行われるようになります。

 

そして、1204年、叡山三塔の大衆が 専修念仏の停止を、ときの天台座主真性に申請しました。

なぜ、このような訴えが起こったかというと、念仏以外の行や阿弥陀仏以外の信仰対象をそしったり、念仏以外の行を実践している者を雑行人とののしったり、無理に引き入れようとした、というわけです。

 

また、法然の説を曲解して自分勝手な説を広げ、あろうことか法然の説であるかのように広める、という事態も起こりました。

 

法然は門弟を集めて、七箇条からなる制誡をつくり、門弟百九十名の署名をとり、別に誓状をそえて座主に送りました。

 

しかし、1207年、後鳥羽上皇により、念仏停止の断が下されます。

そして、法然は同年に讃岐国(現在の香川県)に流されてしまうのです。

 

法然の讃岐滞在は結果として10か月という比較的短いものに終わるのですが、

75歳の高齢にもかかわらず精力的に布教している足跡がうかがえます。

 

空海の建てた由緒正しき善通寺にも法然は訪れています。

 

そして同年の12月の赦免された法然摂津国(現在の大阪府箕面市)に滞在し、

1211年に京へと戻ります。

 

そして78歳で逝去します。

 

この法然の広めた浄土宗は貴族に限らず、武士や庶民にも広く知れ渡り、

日本で一般の女性にも広く布教された初めての宗教といわれます。

法然は教えを国家権力とは切り離し、個人レベルでの救済という点に着眼していました。

 

そして法然は万人が仏になるすべを初めて唱えました。

それが「南無阿弥陀仏」と念じることでした。

 

◆名言

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浄土を往生しようと望む人は、それができるか、できないかに迷わずに、自分が間違いなく往生できるのだという確信をもって念仏すれば、必ず往生できる。

 

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一丈の堀を越えんと思わん人は、一丈五尺を越えんと励むべきなり。

 

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数限りなく念仏を唱えることで、その巨身は次第に縮小され、やがては等身大になって念仏者の眼前に立ち現れる

 

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むかちん