むかちん歴史日記223 世界に影響を与えた思想家、学者、知識人をめぐる旅行シリーズ③ 政治理論の礎を築いた~マキャヴェリ
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は世界に影響を与えた思想家、学者、知識人をめぐる旅行シリーズの第3弾!
現実的な政治理論を展開し、礎を築いた
マキャヴェリ(1469-1527)
を紹介します(*^▽^*)
◆1469年、マキャヴェリはイタリア、フィレンツェで誕生、彼の家は要職を幾人か輩出している名家の家柄でした。
ただ、父は弁護士ではあったが、裕福でもなく、いわゆる中流階級の家庭でマキャヴェリは育ちます。
1498年、マキャヴェリはピエロ・ソデリーニ政権下の第2書記局長に選出され、
同年には「自由と平和のための十人委員会」秘書官に任命されます。
この十人委員会からの依頼でピサ問題についての論考をマキャヴェリは記します。
当時、ピサは海洋国家の一つで、海を持たないフィレンツェが自由になるためには
このピサをフィレンツェが領有することが必要である、とマキャヴェリは論じています。
1499年、フィレンツェはピサ侵攻をするが、マラリアの発症により傭兵が撤退し失敗、
次にフランスのルイ12世がミラノを占拠したので、フィレンツェは同盟を結び、多額の金を支払って傭兵を借りるが、これが全くいうことを聞かず、
またしてもピサの占領に失敗します。
この経験からマキャヴェリは傭兵に頼らない、国民軍の創設というのが彼の思想になっていきます。
実際、彼は国民軍を創設するものの、期待された成果を挙げることはなく、
彼が仕えたソデリーニ政権はメディチ家の復権を図るハプスブルク家に屈し、
マキャヴェリは役職を解かれます。
さらに1513年、ジョヴァンニ・デ・メディチ新政権下起こったボスコリ事件に関与していた疑いで、マキャヴェリは拷問を受けることになります。
このボスコリ事件はメディチ家の要人を暗殺しようという計画が露見した事件で主犯格は処刑され、マキャヴェリも関与していたのでは、と疑惑がかけられましたが、
現在の研究では彼が関与していなかったことがほぼ確実視されています。
ジョヴァンニ・デ・メディチが教皇に選出されたことにより大赦によって、マキャヴェリは釈放されますが、
彼はそこから山荘での隠遁生活が始まり、昼は農業、夜は執筆活動にいそしみます。
執筆活動は政治・歴史・軍事から劇作までに及び、喜劇は大好評を博して著作家としての名声を得ました。
このころに執筆を始めたのが、かの有名な『君主論』です。
1516年、たジュリアーノ・デ・メディチの後任にロレンツォ・デ・メディチが就任すると、マキャヴェッリに謁見の機会が与えられ、
そこで献上したのは『君主論』です。
この『君主論』には混乱するイタリアにあって国を治めるために、自国軍創設や深謀遠慮の重要性を故事を引き合いに出して説いています。
歴史上の失敗事例などを引き合いにして、統治のあり方を説いたいわば実用書のようなものでした。
メディチ政権下で顧問のような存在として、マキャヴェリは扱われるようになりますが、メディチ家が失脚すると、マキャヴェリも一緒に追放されることになります。
これは一貫した共和制主義者からはマキャヴェリはメディチ家にすり寄った裏切り者に映ったのが大きく、
マキャヴェリは失意のなかで、58歳で亡くなります。
むかちん