むかちん歴史日記232 絶大な力を振るったトップリーダーを巡る旅行シリーズ② 中国を初めて統一した皇帝・キングダムでも有名~始皇帝
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*^▽^*)
今日は絶大な力を振るったトップリーダーを巡る旅行シリーズの第2弾!!
中国統一を成し遂げ、昨今はキングダムでも有名
始皇帝(紀元前259-210)
を紹介します(≧▽≦)
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◆誕生時の諱(いみな)を政といいます。
政の父で、秦の公子であった子楚は休戦協定の人質として、
趙に送られており、政も趙で誕生します。
子楚は秦の公子とはいうものの20人以上兄弟がおり、そして妾の子であったため、
全く秦の王など継承する可能性などなく、そして秦の昭襄王は休戦協定を破ってしばしば軍事行動を仕掛けていたため、
子楚はものすごく秦でも趙でも立場がない状況で、人質としてもほとんど無価値に等しかったので、
いつ殺されてもおかしくない状態でした。
そこに目をつけたのが韓の裕福な商人、呂不韋でした。
彼は秦で影響力を持つ工作を進め、秦の王、安国君の正室でありながら、子供がいなかった華陽夫人に大金を投じたり、子楚の交際費を出資するなどして、
子楚はこの呂不韋に大変感謝をし、のちの厚遇を約束していました。
そして、この呂不韋から譲り受けた妾の子供が政(のちの始皇帝)です。
政の祖父、安国君は太子となりますが、政の曽祖父、昭襄王は趙を攻めていたために子楚は処刑されかけましたが、
番人を買収して脱出に成功、しかし子楚だけ逃亡したため、政と母は隠れて生活することを余儀なくされます。
紀元前250年、昭襄王が亡くなり、安国君が孝文王として即位すると、
国際信義上、やむなく、政と母は秦の咸陽に送り返されることになります。
しかし孝文王が在位3日で亡くなると呂不韋の工作通り、子楚が王となり荘襄王として即位、呂不韋の丞相となるのです。
しかしこの荘襄王も3年で亡くなると13歳である政が即位、秦の実質的な政治はこの呂不韋が執行することになります。
しかしこの呂不韋ものち失脚します。
秦は強大な軍事力を誇り、韓と趙を滅亡に追い込み、
弱小国家であった燕は政を暗殺しようとしたが失敗、怒りを買い一族もろとも殲滅、
そして魏・楚・斉を次々に滅ぼして、ついに紀元前221年、春秋戦国時代にピリオドを打ち、39歳にして中国を統一します。
春秋戦国時代には王という尊称が乱立していたため、
政は新たな称号を求め、そして、「皇帝」と名乗り、自らを「始皇帝」とするようになったのです。
始皇帝は五行思想(木、火、土、金、水)をもとに、春秋戦国時代前に力を持っていた周を「火」とすると、秦はそれを打ち消す黒色の「水」と考えており、
儀礼用衣服や皇帝の旗には「黒」を用いるようになります。
そして政治では郡県制を敷き、中央集権の徹底を行って、被支配国は独立国としての体を廃止、36の郡が置かれます。
またバラバラであった通貨を「半両銭」と呼ばれる通貨に統一、
道路や運河などの交通網も整備します。
始皇帝は紀元前247年に自身の陵墓も建設、壮大な規模で「始皇帝陵」としても知られます。
さらには北西の遊牧民族の侵入に備えて、万里の長城を建設に着手させました。
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こうした始皇帝にも当然ながら死は訪れ亡くなります。
始皇帝の死後、中国はまたしても混乱期に突入していくのです。
◆名言
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新しい世代が、当然の事として受け容れているものは忘れ易いものだが、古い世代の厳しい戦いの成果である。
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愛は、平和ではなく、戦争である。武器の代わりに、誠実を尽すだけで、それは地上における、最も激しい戦い、自我を捨てないとならない、戦闘である。
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歴史を読むのは楽しい、歴史を作るのは更に楽しい。
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むかちん