むかちん歴史日記239 歴史に影響を残した女性を巡る旅行シリーズ④ 清王朝で絶大な権勢をふるった女性~西太后
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*‘∀‘)
今日は歴史に影響を残した女性を巡る旅行シリーズの第4弾!!
清王朝で絶大な権勢をふるった女性
西太后(1835-1908)
を紹介します(*^▽^*)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%AA%E5%90%8E
◆西太后は出生地は不明とされていますが、清朝の中堅官僚の父親の下に誕生します。
1852年、西太后は3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格し、
数え年18歳で咸豊帝(かんぽうてい)の後宮に入り、「蘭貴人」となります。
ちなみに皇后はのちの東太后である。
1861年、アロー戦争から逃れていた咸豊帝が亡くなると、その後の政治の実権を巡り、
咸豊帝の長男、載淳の実母である西太后と、咸豊帝の遺命を受けて載淳の後見人となった8人の顧命大臣との間で激しい対立が起こります。
西太后は皇后や咸豊帝の弟、恭親王を味方に引き入れ、クーデターを起こし、顧命大臣らを処刑します。
のち、載淳は同治帝として即位、ここで紫禁城の東と西で居住していることから咸豊帝の皇后を東太后、同治帝の母を西太后と呼びました。
東太后も西太后も、そして恭親王も同治帝の後見人として垂簾政治を行い、三頭政治の状態になりますが、東太后は政治に基本的に関心がないため、実質は西太后と恭親王が実権を握っていました。
1874年、同治帝は若くして亡くなります。
同治帝には子供がいなかったため、後継者が問題となり、自身の権力の低下を恐れた西太后は妹の子供を光緒帝として即位させます。
通例では同世代の人物を後継の皇帝にすることはなく、
同治帝と光緒帝はおおよそ同世代だったのですが
西太后の影響力で即位させ、相変わらず東太后、西太后の垂簾政治は続きました。
しかし、1881年、東太后が45歳で突然死去、さらに恭親王も1884年の清仏戦争の敗戦の責任を被され、失脚させられます。
これをもって西太后に権力が集中することになり、光緒帝の妻に自分の姪をあてがいます。
洋務運動とはヨーロッパの近代文明を取り入れて、清国の軍事力を高める動きで
これがある程度成果を挙げて、安定した期間を同治中興といいます。
しかしこれは1894年の日清戦争によって挫折し、清国は日本に敗北します。
これにより、西太后はその責任を取って政治から手を引くとしたものの、
依然として強い影響力を持っておりました。
日清戦争敗北後の1895年、洋務運動ではなく、さらに体制も変革させていくより急進的な活動である変法運動が起きた。
光緒帝はこの変法運動に共鳴し、康有為や梁啓超ら変法運動派を重用しますが
これらは多くの官僚、側近には支持されませんでした。
西太后は再び政治の実権を握ろうとしますが、光緒帝もそれに対抗して
変法運動に好意的な袁世凱を重用しますが、袁世凱は保身のために変法派の動きを密告、
西太后によって、変法派の主要メンバーは処刑されます(康有為、梁啓超らは日本へ亡命)。
西太后は光緒帝を拘束し、再び垂簾政治を行います。
光緒帝を廃位しようとしますが、諸外国の反対にあい断念します。
西太后は清王朝内では絶大な力を誇っていたものの、諸外国から横やりを入れられるという状況に陥っていました。
1900年、「扶清滅洋」をかがけた義和団の乱がおこり、外国人やキリスト教徒が次々と襲撃されると、西太后はこれを支持します。
しかし八か国連合軍によって鎮圧されていくと西安まで落ち延びていきます。
1908年、光緒帝が亡くなった翌日、西太后も亡くなります。72歳でした。
むかちん