むかちんの歴史日記

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むかちん歴史日記237 歴史に影響を残した女性を巡る旅行シリーズ② 中国史上唯一の女帝~武則天(則天武后)

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

今日は歴史に影響を残した女性を巡る旅行シリーズの第二弾

 

国史上唯一の女帝にして、三大悪女の一人とも言われる

 

武則天則天武后)(624-705)

 

を紹介します。

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9

 

武則天則天武后)は、唐初時代の政治を担った武川鎮軍閥と呼ばれる政治の中枢にいる貴族の集団の中でも傍流の家系ではあるが、代々財産家の家系に生まれました。

 

そのため武則天は幼いころより高度な教育を受けていました。

 

637年、唐の皇帝太宗の才人(妃のこと)となって後宮(中国では妃がいる場所を指す)に入りますが、彼女は非常に頭がよかったことから

 

「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」

 

という言葉が流布されます。

 

要は、彼女の聡明さによって、今の王朝に惨禍がもたらされるということを噂されたもので、武則天に王朝を乗っ取られるのでは!と危惧した言葉でした。

 

太宗は次第に武則天と距離を置くようになりますが

武則天も自身の命が狙われることを恐れて、太宗の息子、李治(のちの高宗)を篭絡したといわれ、

彼は武則天をのちに重用することとなります。

 

太宗の死後、李治が高宗として、皇帝に即位しますが、

皇后と高宗が寵愛していた蕭淑妃が対立します。

 

このころ、武則天は出家して、道教寺院で修業をしていたのですが

蕭淑妃への高宗の寵愛をなくしていくために、皇后によって呼び戻されます。

 

高宗は武則天にかなり入れあげていたようで、

武則天は再び皇后から数えて5番目の地位として後宮に入ると、

655年には、そこからなんと皇后と蕭淑妃の2人を陰謀下毒の罪により、罪人として庶民に落とし、武則天を皇后にしてしまいます。

その家族も流罪に処されます。

 

これは武則天の陰謀といわれ、彼女は自分の産んだ子を殺めて、

皇后に殺されたと訴え、皇后を陥れたのです。

 

彼女の権力への執着はすさまじいものでした。

 

投獄されていた皇后と蕭淑妃の2人を棒で百叩きにして、最後は処刑してしまうのです。

 

武則天は病弱な高宗に変わって垂簾聴政という政治を行います。

 

これは簾(すだれ)の奥から皇后は皇帝に代わって政治を行うことを意味する言葉で

彼女は貴族からの自分への支持は低いとわかっていたので、

出世の望めないと思われていた身分の低い者を積極的に登用し、さらにそこから才能と忠誠心を重視していきました。

 

一方で自身の家系である武一族を登用し、専横的な政治を行います。

反対派に対しては密告政治によって恐怖政治を行い、排除していきます。

 

683年、高宗が死去し、中宗が即位しますが、この中宗も武則天によって因縁をつけられて廃位され、睿宗を即位させますが、彼もまた武則天の傀儡になることを余儀なくされます。

 

そして極めつけは690年、この睿宗を皇太子に格下げして、自ら聖神皇帝と名乗り、国号も「周」と改めてしまいます。

この武則天の周は「武周」といわれます。

 

武則天は非常に専横的な人物ではありましたが、人の才能を見抜く力には秀でていて、

そのために体制は盤石であったといわれます。

 

武則天が病に伏すようになると唐王朝の再興の動きがみられ、

武則天に則天大聖皇帝の尊称を奉ることを約束して位を退かせ、

中宗が皇帝に復位します。

 

これにより唐が復活するのです。

 

武則天側の人間を粛正する動きもありましたが、病に伏しているとはいえ太后であった武則天を無視はできなかったとされています。

 

彼女が705年に亡くなると、のちの皇帝、玄宗武則天時代に地位を落とされたものの名誉回復などに努めるのです。

 

むかちん