むかちん歴史日記358 ランチタイムに教えたい歴史上の暴君たち③ 隋の第二代皇帝、中国史を代表する暴君〜煬帝
新宿から歴史を発信!!むかちんです(≧∀≦)
今日はランチタイムに教えたい歴史上の暴君たちの第二弾!!!
隋の第二代皇帝にして、中国史を代表する暴君
煬帝(569-618)
を紹介します(*´∀`*)
参照元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AC%E5%B8%9D
◆煬帝(ようだい)は隋の建国者文帝楊堅の次子として生まれ、
文帝によって隋が建国されると、煬帝は晋の国王となって、北方の守りにあたり、南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として活躍します。
文帝は質素倹約を是としていた人物でありましたが、煬帝の兄で皇太子だった煬勇は派手好きで妾を好み、正妻を疎かにしたために、特に皇后から嫌われました。
それに乗じて、煬帝は質素をアピールし、腹心の文帝へ諌言させて、兄を皇太子から外し、自らが皇太子の座を射止めることに成功します。
604年に文帝が崩御したことによって煬帝が皇帝に即位しますが、
崩御直前の文帝が煬帝を廃嫡しようとして、逆に暗殺されたという説の流布されました。
煬帝が皇帝に即位すると、それまでの質素な生活からは一変し、贅沢な生活を送るようになります。
また廃止されていた残虐な刑罰も復活させて、刃向かうものに対しては容赦しませんでした。
煬帝は洛陽を東都に定め、文帝が進めていた国都大興城(長安)の建設を進めました。
さらに100万人の民衆を動員して、大運河を建設し、華北と江南を連結して、
物資の輸送ができるようになりました。
ただし、この大運河建設に当たって、女性までもを動員した急工事であり、開通のデモンストレーションとして、自ら龍舟にのって行幸したことは、民衆の反感を買います。
607年、遣隋使の小野妹子がやってきたのも煬帝の治世で、有名な一文「日出處天子致書日沒處天子無恙」(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無しや)の有名な書き出しで始まる国書が倭王から送られています。
これは煬帝からすると非常に礼を失した文章でした。
なぜなら、周辺諸国は中国より劣ると考えられていたにも関わらず、
東国の倭(日本)の王が自らを「天子」と称し、
また煬帝を「日没するところの天子」という落ち目の言い方をしてきたからです。
しかし、高句麗遠征を念頭に置いていた煬帝は外交上、倭との良好な関係は必要と考え、倭に使いを派遣しました。
612年から実際に3度高句麗遠征を行いますが、失敗に終わります。
そして、この遠征は民衆の反乱を招き、隋は混乱期に入ります。
こうした中、煬帝は現実逃避を始め、皇帝としての統治能力を失います。
最期は、家臣二人によって、618年、殺害されました。50才でした。
むかちん