むかちん歴史日記357 ランチタイムに教えたい歴史上の暴君たち② 大浴場建設など行ったローマの暴君~カラカラ帝
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日はランチタイムに教えたい歴史上の暴君たちの第二弾!!
ローマにカラカラ大浴場などを建設し、一方では暴君としても知られるローマ皇帝
カラカラ帝(188-217)
を紹介します。
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%A9
◆カラカラ帝は本名をルキウス・セプティミウス・バッシアヌスといい、
元老院議員の父と後妻で巫女である母との間に長男として生まれます。
父は内乱を制して皇帝となり、209年からは弟とともに共同皇帝としての指名も受けますが、実質的な権限は持ち合わせていませんでした。
彼が「カラカラ」と呼ばれるようになったのは、ガリア地方特有のフード付きチュニックを「カラカラ」といい、彼がそれを幼少期から好んで着ていたことに由来します。
父はカレドニア遠征中に属州で病没し、遠征に同行していたカラカラ帝と弟のゲタ帝は2人で実質的な権力を掌握することになります。
しかし、ローマに帰還すると、2人の権力抗争が激化し、ローマが2分されるところまで来ていましたが、母親によって反対を受けます。
ですが211年、母親が用意した和解の場でカラカラは弟を殺害することを決意、
近衛兵を抱き込んで殺害し、ゲタ帝は駆け付けた母親の腕の中で息絶えたと言われています。
それだけでは飽き足らなかったカラカラはダムナティオ・メモリアエ(名誉の抹殺)を元老院に命令し、
カラカラ帝とゲタ帝が一緒に入っている絵画などはすべてゲタ帝を削り、胸像も破壊しました。
ゲタ帝に好意的な貴族や元老院議員も粛正されました。
212年、カラカラはアントニヌス勅令を発布して、全属州民にローマ市民権を付与しました。
これは税収の拡大を図ったものであることは明らかでしたが、一部歴史家からは結果として市民権を被植民地民にも付与することになったので、評価される側面ともなりました。
カラカラ帝の暴政はローマでよりも東方属州で行われ、
東方属州最大の都市であるアレクサンドリアでは、無抵抗の民衆を兵士に命じて殺害させるという暴挙を行いました。
カラカラは軍事力を増強して、民衆や貴族を弾圧し、権力基盤を確かなものにしてきました。
この軍事費の著しい増大が帝国の財政を大きく圧迫していくことになります。
216年には唯一の功績と言われるカラカラ大浴場を建設します。
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%A9%E6%B5%B4%E5%A0%B4
しかしカラカラの最期は実にあっけないもので、
遠征準備で進んでいる最中に軍列を離れて放尿している途中で、近衛兵の一人に刺殺されます。
これは無実の罪で親族が罰せられたことへの復讐であったようです。
この近衛兵は馬で逃げようとしますが、別の近衛兵の矢によって絶命します。
むかちん