むかちんの歴史日記

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むかちん歴史日記305 グルメを食べながら聞きたい世界の王を語る⑤ 時代に翻弄されたラストエンペラー~宣統帝溥儀

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日はグルメを食べながら聞きたい世界の王を語るシリーズの第5弾!!

 

中国、清王朝最後の皇帝にして、運命に翻弄され続けた

 

宣統帝溥儀(1906-1967)

 

を紹介します。

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E6%BA%A5%E5%84%80

 

1906年愛新覚羅溥儀(のちの宣統帝)は清国の首都である北京に誕生します。

 

1900年に義和団の乱を鎮圧して、依然として権力を持ち続けた西太后によって、溥儀は2歳10か月で宣統帝として皇帝に即位させられます。

 

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参照元 

https://www.chinatimes.com/newspapers/20130514001114-260309

 

この即位は世界各国で大きく報じられ、

溥儀はこのときから多くの宦官や女官らとともに、紫禁城で暮らすことになります。

 

さすがに2歳の溥儀が皇帝として政治を動かすことは難しかったため、

彼の父である醇親王を監国摂政王に任命して、政治の実権を委ねます。

 

1909年、醇親王は兄で、前代の皇帝である光緒帝を裏切ったとして、北洋大臣兼直轄総督の袁世凱を失脚させ、

さらに殺害しようとしますが、内部情報をいち早くつかんだ袁世凱はなんたか逃げ延びます。

 

1911年10月10日、孫文らによる辛亥革命が勃発すると、

袁世凱は反乱を鎮圧する代わりに清国政府に第二代総理大臣の座を要求、

 

それを清が受け入れると、実は袁世凱孫文らとも裏取引をしていて、宣統帝を退位させる代わりに自らが中華民国の臨時大総統に就任するという取引を交わしていました。

 

これには清朝も抵抗しますが、最後は宣統帝退位の決断をします。

 

その後、袁世凱は溥儀に代わって自らが皇帝になろうと画策し、奔走して、1915年に帝政復活を宣言、1916年には国号を中華帝国に改めますが、

 

北洋軍閥や日本政府などの反対に遭い、退位を余儀なくされ、失意の中で袁世凱は死去します。

 

さらに混乱は続き、保守派の張勲が王政復古によって政権を奪還しようと画策、中華民国立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せて、再び溥儀を皇帝に即位させて帝政の復古を宣言しますが、

 

これも13日でつぶれてしまいます。

 

一方で溥儀は退位したのちも清朝皇帝と同等の地位は担保されており、紫禁城で暮らしていました。

 

1919年に中国語が堪能であったスコットランド人のジョンストンを家庭教師に招いて、彼のヨーロッパ風の生活スタイルと思想に溥儀は影響を受けるようになります。

 

また紫禁城への予算が削減されると、溥儀は進んで近代化を進めます。

美術品などの横領をしていた宦官を一斉に解雇。

当時、宦官の横暴に批判的だった世論からは称賛を浴びます。

 

さらに国内の生活困窮者に対して同情を寄せ、匿名で義援金を送ったり、

日本の関東大震災に際しては、膨大な宝石などを送って、日本側で換金してもらうなど、慈善活動も行いました。

 

しかし、武力による統一を図る軍閥の動きが活発化すると

紫禁城からの追放を一方的に通達され、溥儀はイギリス公館やオランダ公館に身柄の受け入れを願い出るものの拒否されます。

 

内政干渉になるのではないかと困惑しつつ、溥儀を受け入れたのは日本でした。

溥儀は日本の租界のある天津で暮らすようになります。

 

潮目が変わるのは1931年の満州事変です。

日本の関東軍満州全域を制圧し、国際世論を鑑みて、

植民地ではなく、国家樹立を目指しました。

 

さらに中国の利権を持つ諸外国に対して、新国家の正当性を示すため、清朝の皇帝であった溥儀を新国家の元首に据えることを画策、

 

これは長年の混乱の中で清朝復権を望んでいた溥儀の思惑とも合致して、溥儀は満州国元首となるのです。

 

1934年、満州国の皇帝となりますが、次第に関東軍の介入は強まっていき、溥儀は自らの身を案ずるようになっていきます。

 

1937年日中戦争、1941年には太平洋戦争が勃発しますが

満州国は宣戦布告などは行いませんでした。

従い、中華民国共産党軍からのゲリラ攻撃との戦闘はありましたが、米国やソ連との直接的な戦闘はありませんでした。

 

1945年、日本は敗戦し、これにより満州国の解体は決定、溥儀も退位します。

 

ここで終わりではなく

1946年、ソ連が突如、日ソ中立条約を破棄してきたことからソ連軍が満州へ侵入、居留民も逃走を余儀なくされるのです。

 

溥儀は日本へ亡命しようとしますがソ連にとらえられ、

ソ連極東部のチタとハバロフスク強制収容所に収監されます。

そして1946年にはソ連によって東京裁判の証人に指名され、

ソ連の監視の下、ソ連に有利な発言を強要されます。

 

そして1950年に中華人民共和国へ身柄を移され、

「再教育」を受けさせられ、さらに同年にはハルビン政治犯収容所に収監されるのです。

 

1960年、模範囚として特赦されます。

 

溥儀は文化大革命の嵐が吹き荒れる中、

腎臓がんを患いますが、紅衛兵の攻撃を恐れた病院は彼を受け入れず、それに怒った周恩来の計らいで治療を受けることになりますが、

 

溥儀のガンは末期状態になり、1967年、死去。

死の間際、最も好物だったのは日本のチキンラーメンだったといわれています。

 

むかちん