むかちんの歴史日記

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むかちん歴史日記304 グルメを食べながら聞きたい世界の王を語る④ 積極的植民地支配に乗り出したベルギー王~レオポルド2世

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日はグルメを食べながら聞きたい世界の王を語るシリーズの第4弾!!!

 

積極的に植民地獲得に動いた国王

 

レオポルド2世(1835-1909)

 

を紹介します。

 

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参照元 

レオポルド2世 (ベルギー王) - Wikipedia

 

 

◆レオポルド2世は1835年にベルギー王国の首都、ブリュッセルで誕生し、王太子となります。

 

1853年、オーストリア大公でハンガリーの副王の娘と結婚、3女1男を授かりますが、1男がまもなく逝去すると、当時、ベルギーでは女性の王位継承を認めていなかったので

 

直系の王位継承対象者がいなくなってしまいます。

 

1855年上院議員となり、政界入りします。

 

レオポルド2世は非常に野心が強いタイプでした。

 

ベルギーという国家そのものが1830年にオランダから独立したばかりの新興国家でありましたが、父であるレオポルド1世の強いリーダーシップの下で

 

1836年、他国に先駆けて、鉄道が完成し、飛躍的な経済発展を遂げていきます。

 

それでもまだまだ小国のベルギーでしたが、

レオポルド2世は当時、王太子ではありながら、ベルギーをそのような地位に甘んじさせておくつもりは毛頭なく、

 

ベルギーにも植民地は不可欠である、という発想に至ります。

 

しかし、ベルギーの上院議員も国民も帝国主義政策には関心を示しませんでした。

 

それでもレオポルド2世は対外的な拡張の必要性を訴え、特に極東の植民地化に強い関心を抱いていました。

 

1865年、王位に即位し、ヨーロッパ随一の農業の収益率と石炭算出、鉄鋼生産の急上昇でベルギーを経済大国に押し上げました。

 

彼はそれまでの考え通り、植民地獲得に強い関心を示し、

東アジア、東南アジア諸国の植民地化を目指して策動しますが、先に手を付けいている列強の中に入っていくのは至難の業でした。

 

そこで、彼はコンゴに目をつけるようになります。

 

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参照元 

http://africa-rikai.net/maps/map_democraticcongo.gif

 

コンゴは、天然ゴム、象牙、ダイヤモンド、金、銀、銅など魅力的な資源が多数あるにもかかわらず、

ヨーロッパ人の「発見」が遅れたため、列強の手がほとんど付けられていない「空白地帯」でした。

 

これに横やりを入れたのがポルトガルで、

15世紀以来の関係にあるのはポルトガルであり、権益は同国のものであると主張、イギリスもこれを支持しますが、

 

一方で英仏の対立を煽ろうともくろむドイツの鉄血宰相、ビスマルクはフランスと結託して、ベルギーを支持します。

 

そしてその利害関係の調整をビスマルクが主宰となって行い、コンゴに中立な立場を取らせることを条件に、

レオポルド2世の私有地であることを認めます。

 

こうしてできたのが、レオポルド2世の私領、「コンゴ自由国」でした。

ここで注目すべきは確かに植民地に興味があったのは、

レオポルド2世個人であって、ベルギー議会は依然として植民地に関心がなかったことです。

 

議会もあくまでコンゴはレオポルド2世の私有地であると主張します。

 

なので、ベルギーでは立憲君主として憲法に縛られる立場であるレオポルド2世でしたが、コンゴでは専制君主としてふるまうことができたのです。

 

コンゴでは天然ゴムの採取などで非常に苛烈な労働を強いられ、大きく人口が減少したとされます。

 

これは大きな批判を浴び、レオポルド2世の個人的な統治からベルギーの国家としての統治へと切り替わり、残虐行為の禁止などが盛り込まれました。

 

レオポルド2世の望み通りベルギーは列強の一つと数えられるようになりましたが、

彼の名声は家族にも疎んじられるほど失墜するのです。

 

1909年逝去。74歳でした。

 

むかちん