むかちん歴史日記238 歴史に影響を残した女性を巡る旅行シリーズ③ 啓蒙専制君主の女帝~エカチェリーナ2世
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は歴史に影響を残した女性を巡る旅行シリーズの第3弾!!
ロシアの啓蒙専制君主で女帝の
エカチェリーナ2世(1729-1796)
を紹介します✨
◆エカチェリーナ2世は1729年、現在のポーランドにあたる北ドイツ、ポンメルンのシュテッティンで誕生します。
彼女はルター派(キリスト教の新教プロテスタントの一派)の洗礼を受けて、ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケと名づけられました。
彼女は2歳のときからフランス人ユグノー(カルヴァン派を主とした教会改革派)の家庭教師から学んでいたため、フランス的な合理主義を持った少女となります。
エカチェリーナ2世はその後、努力を重ね、家柄的には無理であったが、ロシア皇太子妃候補となります。
1744年、ロシア、サンクトペテルブルクに到着し、ロシア語を集中して学び、さらにはロシア正教に改宗して、エカチェリーナ・アレクセーエヴナと改名します。
ロシア皇太子ピョートルと婚約します。
2人ともドイツ育ちでありましたが、エカチェリーナは必死にロシア文化に溶け込み、民衆からの支持を得ようと努力する傍ら、ピョートルはドイツ式にこだわり
また、彼には知的障害があったことから、夫婦関係も持つことがほぼなく、
エカチェリーナは公然と別の男性と関係を持ちます。
元来、この夫婦関係は破綻をきたしていたのですが
1762年にエリザヴェータ女帝が亡くなると、ピョートルが皇帝(ツァーリ)に即位し、エカチェリーナも皇后になります。
ピョートルは即位するやいなや追い詰めいていたプロイセンと講和条約を結ぶとロシア国内から反感を買い、さらにエカチェリーナを廃して、彼が寵愛していたエリザヴェータ・ヴォロンツォヴァを皇后に据えようとしたため、
エカチェリーナを中心とした反ピョートル派はクーデターを敢行、
ピョートルを廃位にして、エカチェリーナが女帝に即位します。
エカチェリーナ2世は啓蒙君主を自任していたため、
西洋の啓蒙思想を積極的に取り入れて、諸政策を試みますが
ロシアは彼女の想像以上に未成熟であったことや彼女がロシア人の血は全く引いていないこと、
そして事情を知らない民衆はピョートルを非業の死を遂げた悲劇の人物で、
エカチェリーナがその地位を奪ったかのように映っていたため、
民衆からの支持もなかなか得られなかった。
その民衆の最大の反乱が1773年のプガチョフの乱で、これを平定したのち、彼女はかなり反動的に厳しく民衆を取り締まるようになります。
対外的にはロシア帝国の領土を拡張させた功績は大きく、
ロシアは歴史的に不凍港を求めて領地を拡大する歴史でもありました。
1768年からのオスマン帝国との露土戦争でクリミア半島へ進出し、
さらにポーランドへ内政干渉を行い、これに警戒したプロイセンとオーストリアは
3国でポーランドの分割を主張し、
最終的には同国家は世界地図から消滅します。
エカチェリーナ2世はロシアの拡大に大きな功績を遺した女帝でした。
1796年、67歳で逝去します。
むかちん