むかちん歴史日記240 歴史に影響を残した女性を巡る旅行シリーズ⑤ 女性の権利獲得に奔走した~平塚らいてう
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は歴史に影響を残した女性を巡る旅行シリーズの第5弾!!!
女性の権利獲得に奔走した
平塚らいてう(1886-1971)
を紹介します(*‘∀‘)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%A1%9A%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%86
◆1886年、平塚は東京に生まれ、1887年から欧米を視察した父の影響でハイカラな環境で育ちました。
ただし父親はその後、欧米風の生活は捨て去り、国粋主義者になります。
1898年、父の方針により国粋主義のモデル校とされていた東京女子高等師範学校附属高等女学校(現:お茶の水女子大学附属高等学校)に入学させられ、
苦痛の5年間を過ごすことになります。
1903年、「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針に憧れて日本女子大学校家政学部に、反対する父を説得して入学します。
1904年、日露戦争が勃発すると、日本女子大学の中でも国家主義的思想が蔓延し始めたのを感じ、平塚はひどく幻滅しました。
1905年、禅の存在を知り、禅の修行をしながら、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』で文学に目覚め、文学の課外講座に参加するようになるが、
そこで出会った森田草平と恋仲になります。
この森田と心中未遂事件、いわゆる塩原事件というのを起こすのですが
この際にあることないことを各所から言われた平塚は、性差別や男尊女卑の社会で抑圧された女性の自我の解放に興味を持つようになっていました。
そして平塚は日本で最初の女性のための文芸誌『青鞜』の製作に入ります。
この『青鞜』は男女で全く別の反応を生み、女性からは手紙が殺到するも、男性や新聞からは冷たい視線を浴びました。
しかし青鞜社に集まる女性が事件を起こすと、平塚邸に投石が相次ぐ事態になりました。
ですが、平塚は大して意に介さず、次第に平塚は「新しい女」とみられるようになっていきます。
1919年、平塚は愛知の繊維工場を視察し、そこでの女性労働者の現状に衝撃を受けます。
そして市川房枝らの協力の下、新婦人協会を設立し、「婦人参政権運動」と「母性の保護」を要求し、女性の政治的・社会的自由を確立させるための活動をしました。
しかし、市川房枝との対立で平塚は抜け、その後活動は停滞、1923年解散します。
再軍備反対、安保条約廃棄、ヴェトナム戦争への反戦運動など一貫して平和活動を展開します。
平塚は晩年まで平和運動、執筆活動を行い、1971年、85歳で亡くなります。
むかちん