むかちん歴史日記241 ランチタイムに読みたい日本の文豪を巡る旅行シリーズ① 平安時代の超大作を書いた〜紫式部
新宿から歴史を発信!!!むかちんです😁✨
今日は、 ランチタイムに読みたい日本の文豪を巡るシリーズの第一弾!!!
平安時代の超大作を書いた才女
紫式部(生没年不詳)
を紹介します✨
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E5%BC%8F%E9%83%A8
紫式部は、藤原北家良門流の越後守・藤原為時の娘で、母は摂津守・藤原為信女であるが、母親は幼い時になくなりました。
彼女は生没年を伝えた記録がないため、生没年不詳とされています。
また本名も諸説あるが、不明とされていて、彼女の「紫式部」という名前は、
一般的な通説としては『源氏物語』に登場する「紫の上」の紫から来ているとされています。
幼少のころかた、当時の女性が求められる才能以上の漢文を読みこなす能力などを持っていて、
彼女は才女ということが伝わっています。
998年、親子ほどの差もある藤原宣孝と結婚し、子も儲けますが、宣孝とは死別します。
1006年、もしくは1007年に紫式部は一条天皇の中宮、彰子の女房兼家庭教師役をつとめ、奉仕しました。
宮中に入った紫式部は、宮仕えをしながら、藤原道長の支援を受けつつ、『源氏物語』54帖という大作を書き上げたと言われています。
ここから150年ほどのちには『源氏物語絵巻』として絵画化され、国宝にもなっているほか、『源氏物語』は日本のみならず20ヶ国語に翻訳されています。
尚、紫式部は『紫式部日記』の中で、清少納言に対して、非常に辛辣な批評をしているが、宮仕えの時期が10年程度違っていることから、紫式部ろ清少納言は、面識がなかったというのが定説になっています。
清少納言が自身の仕えた亡くなった皇后であった中宮定子を述懐していたことが
紫式部の仕える中宮彰子の存在感を阻んでいるという苛立ちがあったと推測されます。
紫式部に関しては没年も不明であるが、
『源氏物語』は1000年以上経った今でも語り継がれている名作です。
むかちん