むかちん歴史日記242 ランチタイムに読みたい日本の文豪を巡るシリーズ② 江戸時代を代表する俳諧師~井原西鶴
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日はランチタイムに読みたい日本の文豪を巡るシリーズの第2弾!!
江戸時代を代表する俳諧師
井原西鶴(1642-1693)
を紹介します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E5%8E%9F%E8%A5%BF%E9%B6%B4
◆井原西鶴は1642年、大坂に生まれます。
1656年、15歳のときに俳諧を志し、1662年、俳諧の点者として立っていました。
1673年に大坂・生國魂神社の南坊で万句俳諧の興行をし、後に『生玉万句』として出版します。
この作品を談林派の俳諧の成立を知らしめる作品とみる向きもあります。
この談林派は西山宗因を中心に作られた俳諧の一派で、
松永貞門門下率いる貞門派に代わって当時の主流を占めていくことになります。
(のちに松尾芭蕉の蕉風に取って代わられていきます。)
この作品は世之介という主人公の好色で自由きままな生き方を活写することによって、
庶民男性の一つの理想的な生き方を描き出すことに成功し、当時、大人気を博します。
庶民向けの草双紙と呼ばれる読み物が流行している最中、この作品はかなり官能的な色彩が強く、人物描写も精緻であるがゆえに、非常にレベルの高い作品となっています。
本作を基軸に本作以前のものを仮名草子と呼び、本作の系統を継ぐ作品を浮世草子と呼称します。
以後、本作とともに「好色もの」と呼ばれる作品、『諸艶大鑑』(1684年)、『好色五人女』(1686年)、『好色一代女』(同年)が立て続けに書かれます。
さらに西鶴は浄瑠璃の『暦』の作りますが、これは浄瑠璃太夫の宇治加賀掾のために書かれたもので、
自分のところを飛び出して、竹本座として独立した竹本義太夫をつぶすために西鶴に依頼したといわれています。
また西鶴が歌舞伎の脚本も書いたという記述が文献も残っているものの
その歌舞伎台本が残っていないため、現在でも真偽は定かではないが、
西鶴がかかわっていた可能性は十分にあると考えられています。
1693年に西鶴は亡くなります。
西鶴没後、遺稿集『西鶴置土産』や『西鶴織留』(1694年)、『西鶴俗つれづれ』(1695年)、『西鶴文反古』(1696年)、『西鶴名残の友』(1699年)が出版されます。
西鶴は同時代では有名人であったものの、江戸末期には忘れ去られており、
西鶴の再評価は明治の淡島寒月によって行われ、幸田露伴、尾崎紅葉、樋口一葉などが
西鶴調の文体を発表します。
むかちん