むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記243 ランチタイムに読みたい日本の文豪を巡るシリーズ③ 明治・大正を代表する国際的な文豪~森鴎外

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日はランチタイムに読みたい日本の文豪を巡るシリーズの第3弾!!!

 

明治・大正を代表する国際的な文豪、

 

森鴎外(1862-1922)

 

を紹介します♪

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%B4%8E%E5%A4%96

 

森鴎外は代々津和野藩の典医を務める家系で生まれ、祖父も父も婿養子で入ってきたため、鴎外は久々の跡継ぎでした。

 

鴎外は幼いころから論語孟子四書五経オランダ語などを学び、非常に将来を有望視されていたそうです。

 

1872年、廃藩置県を契機に上京、ドイツ人がドイツ語で講義を行う官立医学校への進学のため、ドイツ語を学びます。

 

1873年、鴎外は入校試問を受け、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学します。

 

医学を学ぶと同時に文学も読み漁り、漢詩・漢文に傾倒し、和歌も作っていました。

鴎外は1881年に卒業、東京陸軍病院に勤務します。

 

1884年ドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられ、同年、ベルリンに入ります。

 

1888年に鴎外はドイツ留学を終え、日本へ帰還します。

帰国直後にドイツ人女性が来日して、1か月で離日する出来事があり、

これが鴎外の代表作『舞姫』の素材となりました。

 

その鴎外は外国文学の翻訳なども始めました。

代表的なものに『即興詩人』や『ファウスト』などがあり、

翻訳を通して熱心に評論的啓蒙活動を行いました。

 

また徳富蘇峰の依頼により蘇峰の雑誌『国民之友』に『舞姫』を載せます。

 

1894年、鴎外は日清戦争へ出征、戦後は日本へ割譲された台湾で勤務し、

その後は九州の小倉へ移りました。

 

このころ、鴎外はかつてのような評論的な論争していくという姿勢ではなく

慈しみや思いやりといったものを得ていたといわれています。

 

1904年、日露戦争に第二軍軍医部長として出征します。

1907年には、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権を持つ軍医のトップ)に就任します。

 

さらには、1909年、『スバル』が創刊されると半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」「青年」などを同誌に発表。

のち、鴎外は東京帝国大学から文学博士の学位を授与されます。

 

1910年には慶應義塾大学の文学科顧問に就任。

時代背景的に大逆事件などの検挙も相まって、社会主義無政府主義などの政治的な話題にも触れていきます。

 

1916年、陸軍医務局長を退き、予備役となります。

1918年には帝国美術院初代院長に就任。

 

1922年に腎萎縮、肺結核によって亡くなります。60歳でした。

 

◆名言

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初対面の言語動作は人の運命を決すること多し

 

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苦難が大きすぎて、
自分ひとりの力で支え切れない場合には、
家族から身を隠して一人で泣きなさい。

そして、苦悩を涙とともに洗い流したら、
頭をあげて胸を張り、
家族を激励するために家に戻りなさい。

 

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日の光を借りて照る、
大いなる月であるよりも、

自ら光を放つ
小さな灯火でありなさい。

(原文:日の光を籍りて照る
大いなる月たらんよりは、
自ら光を放つ小さき燈火たれ)

 

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みんなが誉めるのは、
おべっかである。

六割が誉めて
四割がけなすのが人材である

 

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人に言うべき事は、
最後まできちんと言うがよい。

全部は言いたくないことだったら、
むしろ初めから黙っていよ。

 

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むかちん