むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記488 平和のために尽くした著名人たち③ 平和・反戦主義の武闘派~梶山静六

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は平和のために尽くした著名人たちシリーズの第3弾!!!

 

平和・反戦主義で武闘派ともいわれた政治家

 

梶山静六(1926-2000)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://ameblo.jp/warmheart2003/image-12078442473-10445633252.html

 

梶山静六は1926年、茨城県で誕生し、陸軍予科士官学校陸軍航空士官学校を経て、日本大学工学部を卒業後、家業の石材業を継ぎます。

1955年、茨城県議会議員初当選、県議会議長就任後に田中角栄から直接打診され、1969年に衆院選に出馬、初当選を飾り、自民党佐藤栄作派、のち田中角栄派に所属します。

 

田中角栄に非常に心酔していたが、1985年、田中に反旗を翻すかたちで、竹下登を総裁候補に担ぐ「創政会」の旗揚げに参画し、金丸信の命を受けて、小沢一郎とともに田中派の多数派工作を行い、竹下派の結成に尽力します。

梶山は奥田敬和小沢一郎(現国民民主党)、羽田孜(のちの首相)、渡部恒三(のちの民主党最高顧問)、小渕恵三(のちの首相)、橋本龍太郎(のちの首相)と並んで、竹下派七奉行と呼ばれ、竹下内閣の誕生にも尽力し、その後自治大臣通産大臣官房長官などを歴任します。

 

要職を歴任した梶山ではありましたが、彼の政治家としての起点は長兄を太平洋戦争で亡くしたことから始まります。

長兄が戦死したとの報を受けた際に母は「名誉の戦死」として地元の人々と万歳三唱をしますが、梶山はこれを不思議に思います。

しかし、その後、自宅の土蔵裏で母が人知れず号泣しているのを目の当たりにし、梶山は母の心情を理解。この悲劇が起こらぬようにと政治家を志したとされます。

 

ゆえに政局においては武闘派と言われた梶山ではありましたが

「日本人の血であがなった憲法9条の精神を捨ててはならない」と述べ、海外における武力行使には慎重な姿勢を崩さず、平和主義・反戦を曲げませんでした。

 

1992年の東京佐川急便事件をきっかけに金丸信が政界を引退すると派閥会長の後継者問題が勃発、羽田孜を推す小沢と小渕恵三を推す梶山で衝突し、一六戦争といわれる対立に発展します。

これは小渕が派閥会長となりますが、これに反発した小沢がのちに派閥を離脱、梶山が幹事長を務めた宮沢喜一内閣の不信任が小沢たちの造反によって可決されることになり、これに伴い行われた衆院選でも自民党は単独では過半数を取れず、非自民の細川護熙内閣が成立して、自民党は野党へ転落することになります。

 

1996年、自民党が与党復帰後の橋本内閣で官房長官に就任。

橋本退陣後は小渕派を離れて、無派閥となり、総裁選に出馬。

2000年に交通事故に遭ってから体調を崩し、そのまま政界引退したのち、

閉そく性黄疸のため、死去します。74歳でした。

 

むかちん