むかちん歴史日記365 一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たち⑤ 日本国憲法下で最短の内閣総理大臣~羽田孜
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は、一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たちシリーズの第5弾!!
非自民系の総理大臣にして、現行憲法下で最も短い在任期間の総理大臣となった
羽田孜(1935-2017)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E7%94%B0%E5%AD%9C
◆羽田孜は1935年に、朝日新聞記者を経て、衆議院議員となった父と、長野電鉄の創設者の娘であった母との間に生まれます。
1944年、戦争が激化したため、羽田は長野へ疎開。中学はそのまま長野で進学しますが、高校は東京の成城学園高校に入学し、大学も成城大学へ進学します。
大学卒業後は父と同じジャーナリズムへの道に憧れ、朝日新聞社、日本経済新聞社などを受験しますが失敗し、父のコネで小田急バスに入社します。
1963年に衆議院議員である父が倒れたため、当初、受け継ぐつもりはなかったものの、
後援会からの要請を受けて、1968年に小田急バスを退職。
1969年に衆議院議員選挙で旧長野2区から自民党公認で出馬し、トップ当選を果たします。当初佐藤栄作率いる佐藤派に入り、その後、田中角栄の田中派となります。
羽田は郵政政務次官を経て、農林政務次官となり、その後は一貫して農林行政に携わり、農林族議員として台頭します。
1985年には第二次中曽根改造内閣で、農林水産大臣として初入閣します。
羽田は田中派の中堅議員として力をつけていきますが、
派閥の世代交代を意識するようになり、羽田は竹下登が結成した「創政会」に参加します。
竹下派結成の際には小沢や梶山静六などと並んで、竹下七奉行と称され、中曽根の後を継いで、総理となった竹下の1988年の改造内閣では、再び農林水産大臣となります。
宇野宗佑内閣を経て、海部俊樹内閣が成立すると、小沢一郎が幹事長に就任、羽田は党選挙制度調査会長に就任し、政治改革推進派の中核となります。
政治改革を標ぼうし、若手議員の信頼を得るが、羽田の主張する小選挙区比例代表並立制に対し、竹下派(経世会)支配に反対している山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎のいわゆるYKKが中心となって、海部内閣倒閣を図り、選挙制度改革は廃案に終わります。
若手議員は大きな敗北感にさいなまれますが、羽田はこれを叱咤し、政治改革は伏流として残り続けることとなります。
1991年宮沢喜一内閣が成立すると、羽田は大蔵大臣に就任します。
1992年、金丸信の佐川急便事件に端を発した竹下派分裂騒動では、派閥会長をめぐって小沢一郎と小渕恵三が対立し、羽田は小沢の側につきます。
そして、羽田は小沢や当選同期の奥田敬和、渡部恒三らとともに羽田派(改革フォーラム21)を立ち上げ、代表に就任します。
1993年6月、宮沢首相が政治改革関連法案の成立を断念すると、羽田派は野党が提出した内閣不信任決議案に賛成し、自民党を集団離党、小沢らとともに新生党を結党し、羽田は党首に就任します。
これに伴い実施された衆院選では、羽田は新党ブームに乗っかって55議席を獲得。
新生党、社会党、公明党、民社党、社会民主連合、日本新党、新党さきがけ、民主改革連合の8党派連立の非自民・非共産政権を作り出し、羽田の首班指名が有力視されましたが、日本新党代表の細川護熙を首班指名することで一致します。
1994年、細川が金銭スキャンダルで電撃辞任すると連立与党は羽田を首班指名することで一致。
しかし、この最中に新生党、日本新党、民社党で統一会派「改新」を結成すると発表、連立内にいた社会党は何も知らない状況で、行われたため、社会党委員長であった村山富市はこれに猛反発し、連立を離脱。
羽田内閣は少数与党での船出を余儀なくされます。
自民党は内閣不信任決議案を提出し、羽田は解散に打って出るつもりだったとされますが、小沢との長い会談のあと、総辞職を選択します。
同年、自社さ連立政権の村山内閣が成立することにより、新生党は野党に転落し、新進党を結党。
その後、小沢との対立を経て、新進党を離党し、太陽党を結党して党首に就任します。
そして1998年、新進党が分裂してできた少数野党の数回の統合を経て、新・民主党が誕生し、初代幹事長に就任します。
そして2009年にはついに悲願の政権交代を実現。民主党政権が誕生します。
羽田は2012年の衆院解散で政界引退を発表し、2017年老衰のため、死去します。
82歳でした。
むかちん