むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記319 九州を舞台に登場する偉人④ 早稲田大学の創設者にして日本の元総理~大隈重信

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は九州を舞台に登場する偉人の第4弾!!

 

九州・佐賀県の出身で、日本の総理大臣、早稲田の初代総長

 

大隈重信(1838-1922)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1

 

大隈重信1838年佐賀藩士の家に誕生、幼名は八太郎と言いました。

大隈は7歳で弘道館に入学し、佐賀の特色でもある「葉隠」に基づく儒教教育を施されますが、大隈はこれに反発します。

 

このころ、枝吉神陽から国学を学び、神陽が結成した「義祭同盟」に参加します。

 

1861年弘道館の教授に着任し、蘭学を講じます。

 

1865年、長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」に教頭格として、入ります。

 

このときに校長の宣教師、グイド・フルベッキから英語を学び、

また新約聖書アメリカ独立宣言を知って、衝撃を受けます。

 

1868年の明治維新後は様々な要職にあたります。

1872年には伊藤博文らと協議して、富岡製糸場の設立にあたります。

 

1874年、ウィーン万国博覧会の参加要請を日本が初めて受け、大隈が総裁として参加します。

これは明治となって初めて参加した博覧会で、近代博物館の源流ともなるものでした。

 

大隈は地租改正などの改革にあたりながら、殖産興業政策を推進し、その後は財政改革の観点からも意見書を出しています。

 

開拓使官有物払い下げをめぐって薩長勢と対立し、参議を免官。下野します。

 

野に下った大隈は1882年、小野梓とともに、立憲改進党を設立。

同年に東京専門学校(現在の早稲田大学)を設立します。

 

大隈の外交手腕を評価する伊藤博文は政敵でありながら、大隈を外務大臣に就任させます。

黒田清隆が伊藤の跡を継いで組閣すると外務大臣に留任しますが、

外国人判事を導入するという条約案が反対派の抵抗に遭い、これが大隈を爆弾で襲撃する大隈重信遭難事件に繋がります。

 

これによって大隈は右足を切断する事態になります。

 

1898年、板垣退助らと憲政党を結成、同年には薩長藩閥以外からの初の総理大臣に就任し、日本初の政党内閣を組閣します。

 

しかし、旧自由党と旧進歩党で対立が起きたことと、アメリカへの強硬姿勢で激怒させたこともあり、大隈内閣は4か月で終焉してしまいます。

 

いったん政界を引退し、早稲田大学初代総長となりますが、

第一次護憲運動が起きると、政界に復帰します。

 

そして1914年には2度目の内閣を組閣します。

1916年には総辞職、完全に政界を引退します。

78歳6か月での引退は歴代の総理大臣でも最高齢の記録でした。

 

1922年、早稲田の私邸で胆石のため亡くなります。

 

◆名言

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諸君は必ず失敗する。

成功があるかもしれませんけど、

成功より失敗が多い。


失敗に落胆しなさるな。

失敗に打ち勝たねばならぬ。

 

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1、怒るな

2、愚痴をこぼすな

3、過去を顧みるな


4、望(のぞみ)を将来に置け

5、人のために善をなせ

 

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学問は脳、仕事は腕、

身を動かすは足である。


しかし、卑しくも大成を期せんには、

先ずこれらすべてを統(す)ぶる

意志の大いなる力がいる

これは勇気である。

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道が窮(きわま)ったかのようで

他に道があるのは世の常である。


時のある限り、人のある限り、

道が窮るという理由はないのである。

 

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幾多の失敗を重ねたが、

しかし恐縮はせぬ。


失敗はわが師なり、

失敗はわが大なる進歩の一部なり

 

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むかちん