むかちん歴史日記295 トップを支えた実力者をめぐる旅行シリーズ⑤ 鳩山一郎を支え、保守合同を成し遂げた功労者〜三木武吉
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*´∀`*)
今日は、トップを支えた実力者をめぐる旅行シリーズの第5弾!!!
三木武吉(1884-1956)
を紹介します(^з^)-☆!!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E6%AD%A6%E5%90%89
◆三木武吉は1884年に現在の香川県高松市の骨董商の家庭に生まれます。
高松中学2年の時にうどんの食い逃げ犯の主犯として退学となり、
京都の同志社中学に転じるが、乱闘事件を起こして放校となります。
東京専門学校(現早稲田大学)に入り、新宿で女遊びに明け暮れる一方で、
野球や法律の勉強に取り組んでいました。
1905年、日本銀行に入行、門司支店に配属になるものの、ポーツマス条約に反対する政府弾劾演説に飛び入り参加して、桂太郎内閣退陣を要求する演説を行い、
服務規定違反で、免職となります。
1907年、高等文官試験(司法科)に合格し、東京司法裁判所司法官補に任じられますが、宮仕えが性に合わず、7ヶ月後に弁護士となります。
1916年、憲政会に入党し、翌1917年の衆議院議員選挙で当選します。
舌鋒鋭く政府を批判することで名を挙げ、「ヤジ将軍」という呼び名をほしいままにします。
1920年、帝国議会のシベリア出兵に関する調査団として1ヶ月シベリアを視察。
この時に三木は加藤高明憲政会総裁や濱口雄幸らから高い評価を受けることになります。
1922年、東京市議会議員に立候補して当選。東京市政浄化を主張して市政革新同盟を結成し、立憲政友会系の新交会と対決することになりますが、のちの同志となる鳩山一郎は新交会所属でこの時は政敵でした。
1923年、当選2回にして憲政会の幹事長となり、同年の総選挙で、憲政会は第1党となり、第一次加藤高明内閣が成立します。
この時、濱口が大蔵大臣に就任し、三木は大蔵参与官に任命されます。
しかし、1928年京成電車疑獄事件への関与は問われ、政界を一時去ります。
1942年、いわゆる翼賛選挙と呼ばれる衆院選に出馬し、非推薦で当選。鳩山一郎も非推薦で当選します。
戦前は政敵であったが、戦時中はお互い軍部に抵抗する自由主義政党人として
終戦後、三木が創設に参加した日本自由党は1946年の衆院選で第1党となり、
鳩山首相実現が現実味を帯びてきたところで、鳩山が公職追放となり、吉田茂内閣が誕生します。
その後、三木も公職追放を受けます。
1951年に公職追放が解除されると、三木は鳩山や河野一郎らと共に打倒吉田に動き出します。
三木は自由党内で党内野党となり、「寝業師」としてあらゆる手段で吉田と闘争を繰り広げます。
1954年、造船疑獄が巻き起こり、自由党の佐藤栄作幹事長、池田勇人政調会長に疑惑が向けられ、三木は反吉田の新党結党に動きだします。
そして日本民主党が結党。
吉田内閣は総辞職し、ついに悲願の鳩山一郎内閣が果たされます。
1955年、左右両派の社会党の統一に危機感を抱いた三木は保守政党の結集を呼びかけます。
大野伴睦という天敵がいたが、三木の浪花節で大野を説き伏せたという逸話は有名です。
そして1955年、ついに自由民主党が結党されます。
そして鳩山が総裁に就任します。
しかし、三木は翌1956年に胃癌で亡くなります。享年71。
むかちん