むかちん歴史日記263 近現代世界の首脳たちを巡る旅行シリーズ③ 自民党初代総裁にして55年体制初の総理大臣~鳩山一郎
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は近現代世界の首脳たちを巡る旅行シリーズの第三弾!!!
鳩山一郎(1883-1959)
を紹介します(*^▽^*)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%B1%B1%E4%B8%80%E9%83%8E
◆1883年、鳩山は弁護士にして東京府議会議員の父と東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)の英語教師であった母との間に誕生します。
1907年に東京帝国大学法科大学英法科卒業。
1911年に東京市議会議員でもあった父が没したため、
1912年、鳩山が出馬し、市議会議員に初当選します。
1915年、立憲政友会公認で衆議院選挙に出馬、初当選を飾ります。
鳩山が政界で力を持ち始めるのは、1932年に義兄の鈴木喜三郎が政友会総裁になったなった際である。
前任者であった犬養毅が五・一五事件で暗殺され、鈴木が総裁を引き継ぎます。
鳩山は犬養内閣からそれに続く齋藤内閣で文部大臣を務めていましたが
党内でも実力を高めていくことになります。
しかし1936年の総選挙で鈴木が落選するという事態に陥ると
鳩山は総裁代理として党を主導しようとしますが
軍部に近い勢力とは一線を画していたため、そうした議員たちとは対立を深めていくことになります。
1942年、翼賛選挙とよばれる、太平洋戦争下で唯一行われた選挙で、
当時、一部政党をのぞいて、自発的に政党を解散し、大政翼賛会に合流、
軍部の方針を追認していくという政治が行われましたが、
鳩山は議会制民主主義を守るという立場から翼賛体制には迎合せず
この翼賛選挙自体にも反対をしました。
結局、東條英機内閣の戦時刑事特別法改正案に反対し翼賛政治会を脱会します。
1946年の衆議院選挙で鳩山率いる日本自由党が第一党に躍進すると
鳩山総裁は総理大臣に指名されるのを待つばかりの状態となっていました。
しかし、鳩山の戦前の発言からGHQより軍国主義者とみなされ、公職追放を受けることになります。
さらに追放解除を目前にした1951年、脳梗塞で倒れます。
こうした不運と貴族主義的でかつワンマンな吉田茂が不人気で首相の座を離れると
公職追放から復帰した鳩山が首相に就任します。
1955年、政界の寝業師にして、鳩山の盟友、三木武吉の尽力により、吉田茂のいた自由党と鳩山率いる日本民主党の保守合同が成立、ここに今も続く自由民主党が誕生し、
鳩山一郎が初代総裁になります。
そして保守である自民党と革新である社会党という勢力を軸とした議会体制である
55年体制が成立します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%B1%B1%E4%B8%80%E9%83%8E
鳩山は吉田のアメリカ中心の外交からの転換を図り、
1956年日ソ共同宣言によって懸案であったソ連との国交を回復します。
その後、総辞職をし、鳩山は政界を引退。
療養生活を送りますが1959年、77歳で亡くなります。
むかちん