むかちん歴史日記164 日本の政治家をめぐる旅行シリーズ④ 要職について辣腕を振るった~野中広務
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は、日本の政治家をめぐる旅行シリーズ、ということで
野中広務(1925-2018)
を紹介します( ^ω^ )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E4%B8%AD%E5%BA%83%E5%8B%99
◆野中広務は京都府議会議員などを歴任し、1983年、自民党木曜クラブ(田中派)公認で立候補します。同期にはのちに自民党総裁になる谷垣禎一もいました。
野中は田中派に所属して、自民党幹事長、内閣官房長官などの要職を歴任し、
また郵政族のドンとして、郵政に大きな影響力を持ちます。
野中が特に自民党内で台頭してきたのは、自民党が1993年に下野し、細川内閣が誕生したときでした。
ずっと与党の経験しかなかった自民党において、野党として、与党を追及できるような人材がいなかったのです。
しかし、野中は京都府議時代、むしろ野党の経験が長かったのもあり、実力を発揮して、台頭します。
1994年、自社さ(自民党、社会党、さきがけ)政権として、自民党が政権に復帰すると、野中は村山内閣で自治大臣・国家公安委員長として初入閣します。
野中はその後も各内閣で要職につき、その辣腕を発揮していきます。
橋本内閣時代は幹事長代理として加藤紘一幹事長を支え、
小沢一郎ら新進党との連携を図ろうとした梶山清六官房長官と対立、
野中は自社さ連立堅持を主張します。
着々と自民党の議席を増やしていき、ついには自民党単独過半数まで回復させます。
これが結果として連立する社民党、さきがけの発言力を低下させます。
続く小渕内閣では固辞していたものの、小渕恵三首相に土下座で頼まれ、
内閣官房長官に就任。
小渕内閣は、一転して自自公連立(自民党・自由党(小沢一郎が党首)、公明党)に舵を切ります。
小渕が首相在任中に死去すると、森喜朗政権発足に関与、これが密室談合だとして、野党や世論から厳しい批判を浴びます。
森政権下では幹事長に就任、加藤紘一が森政権に反旗を翻そうとした、いわゆる加藤の乱の際に、加藤派の議員たちを古賀誠とともに切り崩したのが野中でした。
小渕、森政権ではその圧倒的な影響力から「影の総理」とまで言われていました。
しかし、野中は森のあとの総理となる小泉純一郎と対立、政界引退をかけて藤井孝男を総裁選で擁立して戦うが、大敗します。
これを機に野中は政界を引退。野中の後継も郵政民政化法案に造反し、非公認で出馬するも落選。
また野中が支援していた亀井静香や野田聖子らも造反して、自民党の公認を得られなかったため、権力抗争から外れていき、次第に影響力は弱まっていきます。
◆野中は一貫して自民党ハト派として、「戦争反対・平和」を訴え、また弱者の話にはよく耳を傾ける政治家であったとされます。
部落差別、ハンセン病訴訟、また沖縄に対しても非常に誠意をもって接していたそうです。
この点から小泉の政治を「非情の政治」と批判、安倍晋三や麻生太郎にも非常に厳しい批判を加えました。
野中は2018年1月、この世を去ります。92歳でした。
◆名言
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情報を得るのが人より少しでも早ければ、相手の一歩先を読める。
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ケンカは必ず格上とやるべし。格下に勝っても頭角を現す点数にはならない。
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どんな職場でも、努力して真剣に取り組めば見てくれている人は必ずいます。人望というのはその結果でしょう。
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自分以外の人たちへの愛情も、成功を得るのに必要だと、この頃つくづく考えるようになりました。私は40年近く無報酬で障害者施設の理事長を務めています。ある意味で余技ですが、いまとなっては休息の場であり、愛情と情熱を注いだ私の人生最後のよりどころになっています。
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昔の日本は汗を流せばその分、報われる社会でしたが、いまは先行き不透明でストレスも多い時代です。しかし、そんな中でも、「運・鈍・根」、つまり、運を得ることと、それを焦らず活かすための不断の努力、そして根性が、人間の進み方として一番必要じゃないかと思っています。
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むかちん