むかちん歴史日記126 九州有名人シリーズ② 日本のために命を尽くした男~重光葵
新宿から歴史を発信!!むかちんです(#^^#)
今日は前回の松本清張にひきつづきまして、
九州有名人シリーズと題して特集します(*'▽')
今回は戦後、日本の全権大使として降伏文書調印という重役を担った
重光葵(1887-1957)
を紹介します( ^ω^ )
https://ja.wikipedia.org/wiki/重光葵
◆重光は大分県出身の外交官・政治家です。
重光は駐華行使を務めているころに満州事変(1931年)勃発、
この日本陸軍の突然の暴走に非常に憤慨し、なんとか和平をとりつけようと奔走します。
日本の植民地拡大にも反対し、また欧州戦争に介入していくことにも反対の電報を送り続けたが、日本政府に聞き入れられず、松岡洋右外相は日独伊三国同盟を結んでしまいます。
これによりアメリカの対日姿勢は硬化していきました。
◆東條英機内閣、小磯國昭内閣では外相を務め、人種差別の反対とアジアの自主独立の尊重を主張し、奔走します。
◆敗戦後、重光は東久邇宮内閣の外相を務め、降伏文書に調印するという重大な仕事を成し遂げます。
しかし、のちに連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥が日本に軍政を敷き、英語を公用語にする、と言い出したのです。
重光は日本の主権を認めたポツダム宣言の内容から逸脱するとして、
布告の即時取り下げを要求します。
マッカーサーと粘り強い交渉をし続けた重光に対し、マッカーサーの側がついに折れ、
占領政策を日本政府を通じた間接統治というかたちにまでしたのです。
冷静に考えると重光の根性といいますか、度胸がすごい。
というのも敗戦し、占領されている側がなんとか国を守るため、
占領する側に直談判するわけですから、ある意味、殺されてもいい覚悟でいかないとならないわけですから。
その後、重光は東京裁判によって、大方の予想に反して、A級戦犯として、服役することになります。
服役後、鳩山内閣で4度外相を務めました。
1956年、日本の国際連合加盟が承認された国連総会で、重光は日本の全権大使として、演説をします。
「わが国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米及びアジア両文明の融合の産物であつて、日本はある意味において東西のかけ橋となり得るのであります。このような地位にある日本は、その大きな責任を充分自覚しておるのであります」
その翌年の1957年、重光は亡くなります。
◆名言
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「我らの深く希望することは国際連合が常に世界平和の手段としてのその使命にふさわしい、出来るだけ大きな権限を行使することであります。・・・・日本は国際連合が世界平和のための中心的な推進力であると信じております」
注釈:1956年12月18日の国連総会より
むかちん