むかちん歴史日記94 平成を掲げ、総理まで上り詰めた〜小渕恵三
新宿から歴史を発信!!むかちんです^ー^
今日は、平成の元号をテレビの前で掲げたことでも有名な
小渕恵三元総理大臣を紹介します!!
参照元 https://www.jiji.com/jc/d4?p=sso026-jlp09483406&d=d4_psn
◆小渕は、群馬県の出身。
早稲田大学卒業後、1963年に衆院議員選挙に出馬、初当選を飾る。
当時は中選挙区制度であったため、4人当選枠の3位で当選を飾ったわけだが、
小渕の選挙区には、大物議員が林立し、福田赳夫(のちの総理大臣)、中曽根康弘(のちの総理大臣)、山口鶴男(のちの日本社会党書記長)らがおり、小渕は自らを「ビルの谷間のラーメン屋」と評していました。
派閥は一貫して保守本流を歩み、
佐藤派(佐藤栄作)→田中派(田中角栄)→竹下派(竹下登・経世会)→小渕派
で、特に竹下登(総理)には、一貫して師事してきました。
小渕は、小沢一郎や渡部恒三、橋本龍太郎らとならんで、竹下派七奉行といわれ、力を持つ議員だったわけです。
◆官房長官時代に昭和天皇が崩御し、平成の元号を発表したのが、小渕であったことから、平成おじさんのイメージが強いですよね。
小渕は佐川急便事件で実質的な派閥のオーナーだった金丸信が引退すると、
半ば強引に派閥の領袖に担ぎ上げられるわけですが、
これに反発した小沢一郎系のグループは羽田孜を担いで、改革フォーラム21を立ち上げます。
これが、のちの宮沢内閣不信任案の際に、賛成票を投じることになるグループで
その後、新生党を結党するわけです。
◆非自民の連立政権の崩壊、その後の自社さ連立政権の村山富市内閣が総辞職して、
彼の功績として大きかったのは外務大臣として、外務省の反対を押し切って、対人地雷全面禁止条約を締結したことです。
これは野党からも高い評価を受けることになるのです。
◆橋本政権が参議院選挙で敗北し、総辞職すると、
梶山静六、小渕恵三、小泉純一郎が総裁選に出馬、彼らを田中眞紀子が梶山=軍人、小渕=凡人、小泉=変人と評します。
ここで、小渕が自民党総裁に就任し、総理大臣になるわけです。
しかし、旧来の政治から変わった印象を与えなかったため、小渕の人気は初期は低空飛行からスタートします。
外国メディアからは「冷めたピザ」とまで言われていました。
しかし、小渕は「人柄の小渕」として知られ、
敵を作らない性格であり、また「ブッチホン」など総理自らが電話をするその親しみやすさが徐々に浸透していくと同時に、数々の懸案も片付けていったことから徐々に支持率もあがり、長期政権も見えてきました。
しかし、その矢先に、小渕は倒れ、そのまま帰らぬ人になるのです。
◆名言
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宿命に生まれ、運命に挑み、使命に燃える。
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むかちん