むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記127 九州有名人シリーズ③ 戦国の名軍師〜黒田孝高(官兵衛)

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(〃^∇^)o_彡☆

今日は九州有名人シリーズ③と題して、今回は福岡藩の祖となる

 

黒田孝高(官兵衛)(1546−1604)

 

を紹介しますヽ(・∀・)人(・∀・)ノ

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98

 

黒田官兵衛は16歳で小寺政職の家臣となり、先見性を見込まれて、要職につきます。

22歳で家督を継ぎ、播磨国姫路城主となります。

赤松政秀に2度にわたり攻め込まれるが、いずれもかろうじて、勝利しました。

 

◆官兵衛は織田家の家臣を務め、明智光秀による本能寺の変が起こり、信長が死去すると、豊臣家の家臣として、信長の弔い合戦として明智光秀討伐を進言します😁

 

九州征伐で貢献した黒田官兵衛は、豊前国(福岡県)の中の6郡、およそ12万石を与えられ、中津城を築城します。

 

小田原城征伐では北条氏政、氏直父子を小田原城に入って説得し、無血開城を実現して功績を立てました。

 

官兵衛は家督を嫡男の黒田長政に譲り、隠居生活に入っていました。

長政は、石田三成と対立するようになり、関ヶ原の戦いで、石田三成徳川家康に対して挙兵すると(西軍)、長政は家康側(東軍)について戦います。

 

官兵衛は1604年に京都の伏見で亡くなります。

 

◆名言

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まず自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせていれば、叱ったり脅したりしなくても、自然に威は備わるものだ。

 

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その職にふさわしくない者はすぐに処分したりするが、よく考えてみると、その役を十分に務めてくれるだろうと見たのはその主だ。目利き違いなのだから、主の罪は臣下よりもなお重い。

 

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むかちん