むかちん歴史日記362 一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たち② あの織田信長を討ち取った家臣~明智光秀
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たちシリーズの第2弾!
あの織田信長を討ち取り「三日天下」と呼ばれた
明智光秀(不詳~1582)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 https://www.kyoto-np.co.jp/shiga/article/20180608000026/1
◆明智光秀は生年不詳であり、生地も現在の岐阜県のあたりということが分かっているぐらいです。
齋藤道三に仕えるが、1556年に道三と義龍親子による争い・長良川の戦いで
道三側についた光秀は義龍の軍に攻められ、一家離散します。
その後は朝倉義景を頼りに10年間仕えたそうです。
1565年、室町幕府第13代将軍足利義輝が暗殺されると、その弟の義昭が織田信長を含む各地の武将に自分を征夷大将軍にするように促すよう要請します。
これの仲介者となったのが明智光秀とされていて、ここで義昭と信長を結び付けたようです。
その後、光秀は義昭と信長、両家の家臣となり、1568年に義昭の上洛に加わります。
このころから秀吉らとともに、信長の支配下の京都とその周辺の政務にあたり、事実上の京都奉行の職務を行います。
1570年には浅井長政の裏切りで、窮地に陥った信長を、秀吉とともに防戦して救い出している。
1571年には三好三人衆の四国からの攻め上りと当時に石山本願寺が挙兵すると、
光秀は信長と義昭に従軍して挙兵し、同年には比叡山焼き討ち部隊の中心実行部隊として武功を挙げます。
1573年、義昭が挙兵します。信長と対立したとされますが、
信長は将軍を重んじて義昭と講和交渉をして、成立する直前で松永久秀の妨害で破綻します。
義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上の滅亡を迎えます。
光秀は1575年から1579年に丹羽国平定を任され、これを平定、さらには丹後国も平定します。
これを信長は絶賛し、丹波国などを与えられ、34万石を領するようになります。
そしていまだにその理由など謎の多い、本能寺の変が1582年に起こります。
秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出発、途中で京都に引き返し、信長の宿泊していた本能寺を光秀軍13000人が取り囲みました。
信長は奮戦したものの、最期は自らで火を放ち、自害したとされています。
しかし、信長の遺体が発見されることはありませんでした。
これに敗れた明智光秀は、坂本城を目指して落ち延びる途中で、落ち武者狩りの竹槍で深手を負い、自害したとされます。
むかちん