むかちんの歴史日記

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むかちん歴史日記292 トップを支えた実力者をめぐる旅行シリーズ② 米沢藩家老として上杉家を支えた~直江兼続

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日はトップを支えた実力者をめぐる旅行シリーズの第二弾!

 

米沢藩の家老として上杉家を支えた愛の人

 

直江兼続(1560-1620)

 

を紹介します。

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E5%85%BC%E7%B6%9A

 

直江兼続に関しては諸説存在し、断定的には言えない部分もあるのですが、

1560年に現在の新潟に誕生したとされます。

 

1578年に起きた、上杉家の家督争いである「御館の乱」が収束、このころには兼続が上杉景勝の側近として取次役などをなしている記録が残っています。

 

1581年、景勝の側近であった、直江信綱や山崎秀仙が毛利秀広に殺害されると、景勝の命により、兼続は直江家に婿入りし、越後与板城主となります。

 

上杉家は兼続と狩野秀治との二人体制であったが、

1584年に秀治が亡くなると、兼続が1人ですべてを担うようになります。

 

このころには景勝が「殿」、兼続は「旦那」などと呼ばれるようになります。

 

1589年、佐渡征伐に景勝とともに従軍し、平定後には佐渡の支配を命じられます。

 

小田原征伐文禄・慶長の役にも参上し、

上杉領となった庄内地方大宝寺城の改修や一揆の制圧などを担っていきます。

 

1598年、秀吉の命により、景勝が越後から会津120万石へ加増移封された際、兼続には6万石の所領が与えられます。

 

1600年、秀吉の死後、景勝、兼続は秀吉への義を重んじ、石田三成と関係も良かったこともあって、徳川家康と対立したことで、関ケ原の合戦には西軍として参加します。

 

結局、西軍は敗れ、上杉家も降伏するのですが、

1601年、景勝とともに兼続は上洛し、家康に謝罪します。

 

その後は徳川家との融和を図り、徳川家の重臣の息子を兼続の娘の婿養子にするなど交流が図られ、戦でも徳川方で武功を挙げていくことになります。

 

1620年、兼続は病死します。60歳でした。

 

むかちん