むかちんの歴史日記

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むかちん歴史日記291 トップを支えた実力者をめぐる旅行シリーズ① 三国志で最も有名な軍師~諸葛亮

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日はトップを支えた実力者をめぐる旅行シリーズの第一弾!

 

三国志で最も有名な蜀の軍師、

 

諸葛亮(181-234)

 

を紹介します。

 

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参照元 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%91%9B%E4%BA%AE

 

諸葛亮は181年に現在の山東省に戸籍があったとされますが、出生地に関しては不明で、幼いころに弟とともに南方へ移住します。

 

その後、諸葛亮は弟とともに、荊州晴耕雨読の生活に入ります。

このころに諸葛亮は地元の名士、黄承彦の娘をめとりますが、

黄承彦は、「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛亮がこれを受け入れたかたちとなりました。

 

しかし、周囲はこれをあざ笑い、「孔明諸葛亮の字)の嫁選びを真似てはいけない」といったという。

このことから不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになりました。

 

同じころ、華北では200年に魏の曹操袁紹を打ち破って、覇権を握り、南進のころ合いを計っている時期でした。

そのため、劉備は人材が欲しており、当時、劉備の下を諸葛亮の友人が足しげく通っており、諸葛亮のことも劉備は聞いていたのだが、その友人曰く「私が頼んだくらいでは来ない」といいました。

 

そこで劉備は3度にわたり、諸葛亮の家を訪れ、やっと迎え入れることに成功します。

ここから目上の人間が目下の人間のために礼を尽くすことを「三顧の礼」と呼びます。

 

こうして蜀の名軍師諸葛亮が誕生するわけですが、

諸葛亮劉備に対して、「天下三分の計」を示し、曹操孫権との衝突をまず避け、荊州益州を領有、その後天下を取りにいく、と計画を示し、劉備はその知略に感銘を受けたといわれています。

 

また諸葛亮の知略で有名なのが映画にもなった赤壁の戦いで、

これは諸葛亮が呉の孫権のところを訪れ、蜀との連合を組ませて、曹操率いる魏に勝利したものです。

 

また諸葛亮の戦で有名なのが北伐で、これも魏を攻めるものであったが、これにあたり上奏した出師表は名文として有名で、蜀への忠義が記されているそうです。

 

またかねてから才能を評価していたものの、指示に従わずに敗北した馬謖を処刑したのもこのときで、有名な故事成語諸葛孔明、泣いて馬謖を切る」が生まれました。

 

諸葛亮は234年、北伐中の陣中で病に倒れ、亡くなります。享年54歳。

 

◆名言

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学ぶことで、
才能は開花する。

 

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人生とは、

困難との戦いの連続である。

 

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治世は大徳を以ってし、

小恵を以ってせず。

 

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優れた人は静かに身を修め、

徳を養なう。

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立派な人間の友情は、

温かいからといって花を増やすこともなければ、

寒いからといって葉を落とすこともない。

どんな時でも衰えず、

順境と逆境を経験して、

友情はいよいよ堅固なものになっていく。

 

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自分の心は秤のようなものである。

人の都合で上下したりはしない。

 

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自分の心は秤のようなものである。

人の都合で上下したりはしない。

 

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むかちん