むかちん歴史日記 211 九州が生んだ偉人シリーズ① 薩摩といえばこの方~西郷隆盛
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(*^▽^*)
今日は九州が生んだ偉人シリーズの第一弾!!
薩摩といえば、この方!!
西郷隆盛(1828-1877)
を紹介します(≧▽≦)
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/
薩摩藩は島津家以来武勇を誇っていた武士の藩で
西郷も例外ではなく、大久保利通らとともに教育を受けます。
しかし、西郷は10歳ごろに喧嘩で腕をけがしてしまい、
武芸の道は断念します。
西郷が18歳になるころ、
黒船来航よりも前、琉球にイギリスとフランスの軍艦が来航し、
通商を迫るという事件が起こりました。
このときに西郷は日本はもっと力をつけていく必要があることを悟ります。
これは藩主島津斉興の世継ぎをめぐり、斉彬派と久光派を分断する事件が起こります。
側室のお由羅が自身の息子、久光を世継ぎにしたいがために、
斉彬に呪詛をかけた、という噂が流れ、しかもタイミング悪く、斉彬の子が他界してしまうのです。
やはり、呪詛をかけたのか、、、と斉彬派は断定し、お由羅を亡き者にしようと計画しますが、事前に露見してしまい、50人程度が処分されてしまうのです。
このとき、西郷の父が御用人をしていた赤山靭負(ゆきえ)が切腹、赤山の形見の地衣を見せられた西郷も涙し、斉彬を継がせたいと思うようになります。
のちに、幕府を通じて工作を行い、斉彬派は斉彬を世継ぎにすることに成功します。
◆さらに日本に大きな出来事が起こります。
1853年、浦賀にペリーが来航したのです。
斉彬は幕府から江戸に来るように要請され、西郷も同行することとなります。
西郷は斉彬の右腕として存在感を発揮していくのです。
これにより、斉彬は家定の岳父として、より力を持つようになるのです。
ただ、家定は子を作らないまま病床に伏してしまったため、
家督争いが熾烈を極めます。
結局井伊家が推す徳川家茂が将軍となります。
このころに斉彬は赤痢で他界すると、西郷は大きなショックを受けたといいます。
井伊直弼が実権を握るようになると
一橋派を弾圧していくいわゆる「安政の大獄」が始まります。
これによって、西郷と朝廷工作で密に連絡を取っていた月照が狙われるようになるため
彼を薩摩で保護していたのですが、
斉彬が亡き現状で、幕府から狙われている月照を保護しておくのは百害あって一利なし。
月照を切り捨てるよう西郷は命じられます。
しかし、西郷はそれができない。
そこで、ともに水死する、という選択を取るのですが、
なんと、西郷だけ生き延びてしまうのです。
西郷はその後別名を使い、奄美に潜伏しますが、
情勢が刻一刻と変わる中、憎き島津久光に藩へ戻るよう言われます。
幕府の実権が揺らいでいたころ。
久光はこれを機に影響力を高めようと西郷を呼び寄せますが、
西郷は久光に暴言を吐き、決裂。
最終的には西郷は再び流刑になるのです。
さらに1863年、生麦事件で、薩摩藩の武士がイギリス人の非礼に怒り、殺傷するという事件が起こり、これを機にイギリスの軍艦が薩摩を攻めてきます。
薩英戦争の勃発です。
薩摩が手痛い損害を受けている最中、京都では長州が勢力を伸ばし、混沌とした時代になりました。
薩摩と長州はこののちも戦いを繰り返しますが、
そこで西郷は勝海舟と出会うのです。
幕府にもう力などない。
諸侯は力を合わせて、海外に立ち向かうべき。。。
西郷は勝から強い影響を受けるのです。
そして坂本龍馬の働きもあり、
薩長同盟が結ばれるのです。
西郷は武力で倒幕を計ろうとしていました。
しかし、西郷はこのままでは、失脚がまぬがれません。
ですが武力派は少数派になってしまっていました。
しかも慶喜に対して好意的な意見のほうが多かったのです。
薩摩の一部が江戸で無差別テロを実行。
これに怒った警護が薩摩藩邸を焼き討ちにし、いよいよ武力衝突か、という局面にきたときに
◆明治の新政府が樹立されますが、
西郷や島津久光が実権を握ることはありませんでした。
さらに新政府の官僚たちの腐敗。
そうした反乱因子が挙兵し、1877年西南戦争が勃発します。
敗れた西郷は切腹するのです。
むかちん