むかちん歴史日記212 九州が生んだ偉人シリーズ② 宮崎が生んだ外交官・政治家~小村寿太郎
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は九州が生んだ偉人シリーズの第2弾!!!
宮崎出身で不平等条約改正に尽力した
小村寿太郎(1855-1911)
を紹介します(≧▽≦)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%91%E5%A3%BD%E5%A4%AA%E9%83%8E
◆1855年、現在の宮崎県で小村は誕生します。
1870年、長崎へ赴き、英語を学び、1870年には藩の推薦で、今の東京大学の前身である大学南校に入学します。
そして第一回文部省海外留学生に選ばれ、ハーバード大学へ留学、法律を学びます。
帰国後、司法省に入省し、1884年には外務省へ移ります。
陸奥宗光に認められて、清国代理公使になります。
1901年には桂小五郎内閣の外務大臣に就任、日英同盟の締結や、1905年の日露戦争の講和条約であるポーツマス条約の調印の日本全権などを務めます。
さらに小村は1908年に再び外務大臣に就任すると、不平等条約の撤廃に務め、
関税自主権の回復などを行います。
日本は、江戸時代に大老、井伊直弼が結んだ日米修好通商条約をはじめとして、
諸外国との不平等条約を開国の際に結ばされていました。
このとき、日本には関税自主権がありませんでした。
関税自主権とは、要は外国からの輸入品にかける税金(これを関税という)の金額を自分で決める権利で、通常植民地にはこれがありません。
日本は欧米列強の植民地だったわけではありませんが
ほとんど同じ状態に置かれていました。
関税自主権がないということは諸外国の都合のいい金額が関税として定められるため、輸入品が安価に、かつ大量に流入し、国内産業に大きな打撃を与える可能性があるため、
明治新政府が取り組むべき、大きな課題の一つであったのです。
小村はこの交渉にあたり、そして関税自主権を回復したのです。
1911年桂内閣総辞職に伴い、小村も政界を離れ、同年11月に56歳で結核で逝去します。
◆名言
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うその外交は骨がおれるし、
いつかはばれるが、
つねに誠をもって押し通せば、
たいした知恵もつかわずに済む。
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ことの善悪は、
その人の決心一つで決まる。
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もし私に誇るべきものがあるとしたら、
それはただ「誠」という言葉に
集約されるであろう。
つまるところ、学問や同胞との付き合いでも、
また将来のことを考える場合でも、
この「誠」の心を忘れずに
貫く覚悟でいるのだ。
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むかちん