むかちん歴史日記207 命がけで使命を全うした世界中の偉人をめぐる旅行シリーズ② 命を懸けて忠義を尽くした~石田三成
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は命がけで使命を全うした世界中の偉人をめぐる旅行シリーズの第2弾!!
最期まで忠義を尽くした武将、
石田三成(1560-1600)
を紹介します(≧▽≦)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90
◆三成は1560年近江に生まれ、羽柴秀吉が信長に仕えて、近江長浜城主になった1574年ごろから父や兄とともに、秀吉に仕官します。
1582年、信長が本能寺の変で没すると、秀吉の天下統一が見えてくる状態となり、
次第に三成も頭角を現すようになります。
1585年、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任されます。
1586年、三成は秀吉から堺奉行に任じられます。堺を完全に従属させ、兵站基地として整備しますが、これがのちの秀吉の九州平定に役立ちます。
1596年、秀吉にキリシタン弾圧を命じられますが、三成はこのとき、極力捕まえるキリシタンの数を減らしたり、秀吉の怒りをおさめて、処刑されないように奔走したりなど
キリシタンに一定の恩情を見せます。
三成は秀吉の朝鮮出兵にも参加しています。
1598年、秀吉が没すると、息子の秀頼が継ぎます。
このころ、政務を担う三成ら文治派と軍務を担う加藤清正、福島正則ら武断派で対立していくようになります。
武断派は徳川家康に接近していき徳川は武断派諸大名とひそかに縁戚関係を結んでいきます。
これが明るみにでると、さらに対立は先鋭化の様相を見せます。
この派閥対立の仲裁を行っていた前田利家が亡くなると、
家康の仲裁で和談が成立するものの、三成は五奉行を退くこととなります。
そして徐々に家康が豊臣政権内部の実権を握るようになっていきます。
1600年、豊臣政権内部の対立が爆発し、関ケ原の合戦へと至ります。
毛利輝元を総大将とし、宇喜多秀家、石田三成らで結成された西軍と
徳川家康を中心とした東軍が衝突します。
西軍であった小早川秀秋が早々に寝返ったため、西軍は崩壊
結局、三成は戦に敗れ、最期は徳川に捕縛され、斬首されます。
三成は若い時から死ぬまで豊臣家に忠義を尽くし、
豊臣家のために死んでいった武将でありました。
余談ですが、石田三成はその評価が良いものと悪いもので非常に分かれる武将です。
ある種、三成の影響力の大きさなのでしょうが、
三成の悪い噂の多くは江戸時代に記されているといわれます。
徳川の世になって、ある意味、悪役三成を討ち取った徳川、という世論形成だったのかもしれませんね(''Д'')
◆名言
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命を惜しむは、ひとえに我が志を達せんと思うがゆえなり
※これは石田三成が斬首される直前に語ったひとことと言われます。
三成は死ぬことを恐れているのではなく、自分の志を達成せずに死んでいくことが
悔やまれる、と言っているわけです。
この志とは勿論、徳川家康を討伐することだったに他なりません。
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むかちん