むかちんの歴史日記

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むかちん歴史日記361 一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たち①~武家政権を確立しようとした~平清盛

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は一瞬天下を取った、無意味ではない!(笑)偉人たちシリーズの第一弾!!

 

平安時代末期に武士で初めて太政大臣の座についた

 

平清盛(1118-1181)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 http://rapt-neo.com/?p=26516

 

平清盛は1118年、伊勢平氏の頭領である平忠盛の長男として誕生します。

1129年、12歳で従五位下・左兵衛佐に叙任されます。

 

清盛は若いころは鳥羽法皇第一の寵臣、藤原家成の邸に出入りしていました。

1137年熊野本宮を建設した功により肥後守に任ぜられます。

 

忠盛の後継者候補として異母弟の家盛が急浮上してきましたが、

家盛が急死したため、清盛の嫡流としての地位は盤石なものとなります。

 

1156年、保元の乱という朝廷が後白河天皇側と崇徳上皇側に分裂して争う事態が起こり、ここで武士が駆り出されるようになります。

保元の乱では、後白河天皇側について勝利を収め、播磨守となります。

平治の乱でも清盛はその地位を上げることに成功し、また源義朝ら有力な武士がこの2つの乱を通して滅亡したので、清盛の地位は盤石なものとなりました。

 

二条天皇六条天皇に仕えて、その地位を盤石にし、

1167年にはついに武士で初めて太政大臣に上り詰めるのです。

 

これにより平氏の一族も次々と高い地位につくようになりました。

 

さらに清盛が勢いを増すのは、娘を天皇の后にしたからでした。

清盛の娘、徳子を高倉天皇の后にして、徳子がこどもを生むと

2歳にして安徳天皇として即位させてしまいます。

 

こうした平氏の独裁的なやり方に、不満を抱く武士が増え続け、

反乱因子が増えてくると、清盛もこうした不安材料を一掃すべく

寺院の焼き討ちなどを行います。

 

しかし反乱の種は次第に広がり

源頼朝を中心とした反乱軍は徐々に平氏の軍勢を打ち破り

打倒平氏が活発になっていくなか、

 

1181年、清盛は熱病で亡くなります。

 

むかちん