むかちん歴史日記317 九州を舞台に登場する偉人② 武功を重ねた熊本藩主~加藤清正
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今日は九州を舞台に登場する偉人シリーズの第2弾!!
秀吉の下で名をあげ、徳川の時代で熊本藩主に上り詰めた武将
加藤清正(1562-1611)
を紹介します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3
◆加藤清正は1562年、尾張国(現在の愛知県)で誕生します。
清正が3歳のときに父が亡くなり、母と津島へ移ります。
母と秀吉の生母である大政所が遠縁の親戚であったことから、1573年に秀吉に仕えます。
1582年、本能寺の変が起こると、清正は秀吉に従って、山崎の戦いに参加し、翌年の賤ケ岳の戦いでは、敵将の山路正国を討ち取る武功を挙げて、秀吉から「賤ケ岳七本槍」の一人として、3000石の所領を与えられます。
1586年、秀吉の九州平定に従って、肥後国領主となっていた佐々成政が失政によって、領主を外されると、肥後北半国の19万5000石を与えられ、隈本城に入り、のちにこれに改修を加えて、熊本城に改めます。
1592年からは秀吉の朝鮮出兵に伴って、文禄・慶長の役に参加します。
このときに持ち帰ったのが「セロリ」とされ別名を「清正人参」といいます。
秀吉の死により、朝鮮から引き上げることとなり、
しかし、島津の重臣である伊集院が反乱を起こした際、清正がこれを支援していたことが発覚、清正の上洛を禁止し、1600年に関ケ原の戦いが起こったときも清正は肥後にとどめ置かれました。
ですが、途中から家康に認められ、黒田如水の軍とともに出陣、西軍側の九州勢を次々と打ち破り武功を挙げます。
そして戦後の論功行賞では、肥後の南半国も与えられ、52万石の大名になります。
余談ですが、清正は築城の名手として知られ
熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わります。
1611年、病死します。享年50歳。
むかちん