むかちん歴史日記318 九州を舞台に登場する偉人③ 長崎の商館で医師をつとめ、西欧に日本を知らしめたドイツ人~シーボルト
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は九州を舞台に登場する偉人シリーズの第3弾!!
長崎の出島で医師を務めたドイツ人
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)
を紹介します。
◆シーボルトは1796年に神聖ローマ帝国の司教領ヴェルツブルク(現ドイツ・バイエルン州)の医学界の名門の家庭に生まれます。
1815年にヴェルツブルク大学の哲学科に入りますが、家族や親類の意見に従い、医学を学ぶことになります。
大学時代はデリンガー教授の家に寄宿し、そこで植物学に没頭するようになります。
1820年、大学を卒業したシーボルトは国家試験を受け、ハイディングスフェルトで開業しますが、名門出身という自尊心の強いシーボルトは町医者で終わることを選択しませんでした。
東洋学の研究を志したシーボルトは1822年、オランダのハーグへ行き、オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となります。
1823年、シーボルトは鎖国時代の日本の対外貿易窓口であった長崎の出島のオランダ商館医となります。
鎖国時代の日本では、オランダは寄港を認められていましたが
シーボルトはドイツ人であったので、オランダ人に比べて、オランダ語が不正確でありましたが、「山オランダ人である」と言ってごまかしていたそうです。
出島内において開業したのち、1824年に出島の外に鳴滝塾を開き、西洋医学(蘭学)の教育を行います。
高野長英らが参加し、のち多くの医師や学者を輩出しています。
1825年、出島に植物園をつくり、日本を退去するまでに1400種以上の植物を栽培します。
1826年には将軍、徳川家斉にも謁見します。
1828年に帰国する際に、先発した船が難波して積み荷の多くが日本に漂着しましたが、
この荷物の中に幕府禁制の日本地図が含まれていたことが問題となり、いわゆるシーボルト事件によって、シーボルトは国外追放処分となります。
1830年にオランダに帰着したシーボルトは1832年にはコレクションを展示した「日本博物館」を開き、日本学の祖としても名声が高まります。
1854年、日本は開国し、日米修好通商条約が結ばれて、シーボルトに対する追放令も解除されます。
1859年、オランダ貿易会社顧問として、再来日します。
日本に関する情報を西欧に提供するほか、日本関連のあらゆることを記述で残します。
1862年にオランダへ帰国。
1866年、敗血症により、死去します。70歳でした。
むかちん