むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記467 歴史の名軍師② 一代で大国を築いた策士~毛利元就

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は、歴史の名軍師シリーズの第2弾!!!

 

様々な策略を張り巡らし、一代で大国を築いた名将

 

毛利元就(1497-1571)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

Mori-Motonari.jpg

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1

 

毛利元就は1497年に安芸国(現在の広島県西部)に誕生します。

1500年に幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父・毛利弘元が隠居を決意し、嫡男に家督を譲ると、元就は父に連れられて、多治比猿掛城に移り住みます。

 

翌年には実母が死去、1506年には父が酒毒でなくなると、家臣によって、所領を横領され、元就は城を追い出され、非常に困窮した状況に追い込まれます。

 

この時期に元就を支えたのが養母の杉大方で、元就に大きな影響を与えました。

1511年、杉大方から兄へ伝者を送り、元就の元服を許可します。

 

1516年、長兄が亡くなると、彼の嫡男が家督を継ぎますが、子どもであったため、叔父として元就が後見人となりますが、父に相次いで兄が亡くなったことには毛利家内では動揺が走ります。

 

そんな折に武田元繁が攻めてきますが、元就らはこれを撃退。

これが元就の初陣となりました。

 

1523年、長兄の嫡男がわずか9歳で亡くなると、27歳で毛利元就家督を継ぎます。

元就の才覚に気づいて、彼が家督を継ぐことを恐れた尼子経久は元就の異母弟、元綱の擁立を画策するも、元就によって、粛清され、これは鎮圧されます。

 

元就は大内氏から一時尼子氏の配下に入っていましたが、これを境に尼子氏から大内氏の下へ戻ります。

 

元就は戦による勢力拡大を図る一方で、婚姻関係でも周囲との結びつきを強めていきます。

同じ安芸国で対立していた宍戸氏に次女を嫁がせて友好関係を構築したり、天野氏や熊谷氏とも関係構築をしていきます。

 

1540年、尼子詮久が3万の軍を率いて、元就に攻め入り、元就の軍勢は3000という状態で非常に貧弱な状態でありましたが、

宍戸氏や大内義隆の援軍によって、この戦いに勝利し、その勢いで佐東銀山城を落城させ安芸守護の武田氏を滅亡へと追い込んで、安芸国の中心的な存在へと上り詰めていきます。

 

毛利は着実にその基盤を固めていきますが、

毛利には「両川」と呼ばれる有力な援軍が側にいました。

両川=吉川・小早川を指しますが、両家は毛利の家臣ではなく、

毛利が自身の息子を婿養子に送って、関係構築を図った結果出来上がった体制でした。

これも元就の知略と言えます。

 

1551年、大内義隆が家臣陶晴賢(すえのはるかた)に暗殺されると、毛利は大内氏支持の平賀氏の当主を挿げ替えて、傘下に入れ、山の毛利が広島湾に面したところまで領有すると、水軍の力が一気に強化されていきます。

 

しかし、陶晴賢3万の兵に対し、毛利は5千。

正面から戦える相手ではありませんでした。

 

そこで元就は謀略を図って、大内家の内部分裂を図り、かつ人心掌握に優れていた元就は次々と味方に引き入れていきました。

 

毛利元就陶晴賢最大の戦が1555年の厳島の戦いです。

この戦でラッキーなことに暴風雨が発生したことで、毛利は陶晴賢らに奇襲攻撃を仕掛けることに成功して、陶晴賢を自刃に追い込みます。

 

この勢いに乗じて1557年には大内氏を滅亡させ、1566年には尼子氏を滅亡。

瀬戸内海を渡って伊予の河野氏を下して、元就は一代にして、中国地方を中心に8ヶ国(安芸、備後、周防、長門、石見、出雲、伯耆隠岐)+四国(伊予)を支配する大名になりました。

 

晩年は北九州の支配権をめぐり、大友宗麟と対立しますが、1571年に広島で死去します。

享年75歳。

 

むかちん