むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記448 日本の歴史小説で扱われた人物たち③ 混沌とした時代を生きた将軍~足利義政

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は日本の歴史小説で扱われた人物たちシリーズの第三弾!!!

 

応仁の乱など混沌とした時代に銀閣寺建立など

数奇な将軍として知られる

 

足利義政(1436-1490)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

参照元 http://www.web-nihonshi.jp/asikagayosimasa.html

 

参照元 https://www.amazon.co.jp/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%94%BF%E3%81%A8%E9%8A%80%E9%96%A3%E5%AF%BA-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89-%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%B3/dp/4122050693

 

足利義政は1436年、第6代将軍、足利義教の五男として誕生します。

義政は当初、将軍就任が期待されていなかったこともあり、同母兄の義勝が政所の執事の下で育てられたのに対し、義政は母方の一族で公家の屋敷で育てられました。

 

1441年、父が嘉吉の乱で暗殺されると、義勝が7代将軍に就任しますが、1443年に義勝も早世し、8歳にして義政が管領畠山持国などの後見を得て、将軍職に選出、元服を迎えた1449年に正式に8代将軍に就任します。

 

当初の義政は大名間の内紛などに積極的に介入し、守護大名に対する将軍の裁量を強化しようと図りました。

しかし有力な守護大名や母や妻の実家である日野家の介入に遭い、義政が自身に権限を集中させるのは困難でした。

 

1459年、長年住んだ烏丸殿を離れ、父のいた室町殿へと移り住み、親政の拠点として誇示しようとしました。

 

同年、義政と正室日野富子との間には嫡男がおりましたが、早世してしまいます。

富子はこれを乳母の今参局が呪詛したものであるとして彼女を流罪にして、追い落とし、富子は権勢をふるいました。

 

またこのころ寛正の大飢饉が起き、多くの餓死者を出したにもかかわらず、義政は邸宅の造営や酒宴におぼれ、天皇の警告さえも聞かない状況に陥っていました。

 

1464年、義政は富子との間で嫡子には恵まれなかったため、弟を足利義視と名乗らせて、次期将軍に決め、隠居を考えていました。

 

しかし1465年富子が懐妊し、足利義尚が誕生すると、富子は義尚を将軍に就かせたいと考えるようになり、山名宗全に支援を依頼します。

一方で義視は管領細川勝元と協力関係を構築。

 

もともと山名と細川は畠山家の家督争いの内紛で対立しており、この対立も絡んでいました。

 

山名がどんどん力をつけるのを見た細川は義政の邸宅を囲い込み、幕府軍だと認めるように脅し、義政も半ば投げやりにこれを認めてしまいます。

一方で山名はそれを見て、南朝系の天皇を自邸に招き入れて、「天皇軍」名乗るようになります。

 

こうした複雑な因果関係が絡み合うと同時に義政の優柔不断な態度が輪をかけて事態を悪化させ、1467年応仁の乱へと突入していきます。

 

以後、11年にわたって争いは継続され、京都は焼け野原となり、義政の花の御所も焼失してしまうのです。

 

結局足利義尚が将軍となりますが、実権争いをしたにもかかわらず、皮肉にも将軍の権威は失墜していくのです。

 

義政は晩年は義尚とも対立して、義政は東山殿に身を置き、政治とは離れて1482年に銀閣の建設を始めます。

 

しかし、義尚が1489年、六角討伐の陣中で死去すると義政がやむなく政務復帰をしようとしますが、富子の反対と自身の中風により断念し、亡命していた義視と和睦して、義視の嫡男を養子に迎えて将軍とするのです。

 

1490年、義政は銀閣の完成を待たずにこの世を去ります。

55歳でした。

 

むかちん