むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記449 日本の歴史小説で扱われた人物たち④ 四国で繁栄した戦国大名~長宗我部元親

新宿から歴史を発信!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は、日本の歴史小説で扱われた人物たちシリーズの第4弾!!!

四国で繁栄した戦国大名として名を馳せた

 

長宗我部元親(1539-1599)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA

 

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E8%8D%89%E3%81%AE%E8%B3%A6

 

長宗我部元親は1539年、現在の高知県南国市にある岡豊城で、長宗我部国親の長男として誕生します。

幼少の頃は色白とおとなしく、軟弱な性格であったと言われていますが、

 

1560年、23歳と遅い初陣ではありましたが、長浜の戦いで自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せて武名を高めたと言われています。

 

同年、父の国親が急死すると、元親が家督を継ぎます。

 

元親は四国の統一に向け、勢力拡大に励み、

1563年には斉藤氏、1568年には宿敵・本山氏、1569年には安芸氏、1571年には土佐一条氏の家臣であった津野氏をそれぞれ滅ぼし、1574年には一条氏の当主・一条兼定を追放して土佐をほぼ制圧します。

 

土佐を統一したのち、中央で統一事業を進めていた織田信長正室の縁戚関係から同盟を結び、それを背景に伊予国や阿波、讃岐国へと侵攻していきます。

そして元親は1580年までに阿波と讃岐の両国をほぼ制圧します。

 

1580年、信長は元親のこうした動きをよしとはせず

土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫りますが、

当然、元親はこれを拒否します。

 

元親は1582年、阿波を落とされるなど信長との対立はかなり危機的な状況になりますが、明智光秀によって起こされた本能寺の変によって、信長が死に、軍の撤退していったので、危機的状況を脱することができました。

 

こうした中央の混乱の中、元親は再び勢力拡大を図り、中富川の戦いで宿敵、十河存保を破り、阿波の大半を支配下に収めます。

 

1583年、賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家方について、豊臣秀吉らと戦います。

長宗我部は秀吉が送り込んできた軍勢を破りますが、この戦いで結局柴田勝家は滅んでしまいます。

 

1584年、小牧・長久手の戦いで秀吉が送り込んできた仙石秀久を破り、伊予へと勢力を拡大していきます。

 

1585年には四国全土をほぼ統一したと言われていますが、学者によっては見解が分かれているところです。

 

しかし、同年、秀吉によって讃岐、伊予、阿波と次々と長宗我部方の城を落とされると、元親は降伏し、土佐一国のみに安堵されます。

 

その後、秀吉に従軍して戦に参戦しますが

彼の晩年で、最も大きかったのは1586年、彼の世継ぎと考えていた信親とともに、島津氏を相手にした九州征伐に向かい、戸次川の戦いで信親が討ち死にしたことでした。

 

これによって、完全にそれまでの覇気を失った元親は自身も自害しようとしたが、家臣に止められ、それまでの慈悲深く度量の深い性格から、その度量が失われたとされます。

 

1599年、61歳で逝去します。

 

むかちん