むかちん歴史日記398 母の日:歴史上の強い母たち③ 江戸幕府将軍も頭が上がらない偉大な母~於大の方
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は母の日:歴史上の強い母たちシリーズの第三弾!!!!
於大の方(1528-1602)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BC%E5%A4%A7%E3%81%AE%E6%96%B9
父は三河国に所領を持っており、当時その地域で権勢をふるっていた松平氏と友好関係を深めるために於大の方を1541年に松平広忠に嫁がせます。
そして1543年、広忠の長男、竹千代を岡崎城で出産します。
この子どもこそがのちの江戸幕府将軍家康です。
一方で水野忠政の死後、兄の信元は今川氏と絶縁し、織田家に従ったため、今川との関係性を重視していた広忠に、於大は離縁されてしまいます。
1547年、信元の意向で、知多郡阿古居城の城主、久松俊勝と再婚します。
於大は俊勝との間に三男三女を授かりますが、家康とも幾度と連絡を取り続けました。
1560年、桶狭間の戦いのあと、今川氏から自立して、織田家と同盟を結び、
俊勝と於大の3人の息子には松平の姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えます。
家康は離れていても母から送られてくる愛情に感謝していたのでしょう。
1576年、水野信元の謀反を疑った織田は家康に命じて、信元を討たせます。
これによって水野家は一時滅びます。
また家康の下に信元を案内した久松俊勝は隠退してしまい、
家康の下に行かずに、尾張国の所領を継いでいた久松信俊も信長に謀反を疑われ、
大坂四天王寺で自害します。
久松俊勝は秀吉が関白になるころに亡くなり、当時の習慣として、於大は出家しますが、それでも家康や徳川家のために働きました。
1584年、息子の松平定勝を秀吉の養子にしようという話が浮上した際、
於大はこれに強く反対します。
ものすごい剣幕で反対したとされ、天下の将軍となる家康もこの反対を説得することはできなかったようで、断念します。
また1602年、豊臣家との関係が悪化した際には、高台院(寧々)のところを訪れて、豊国神社に詣でて、徳川家が豊臣家に敵意がないことを示します。
同年、於大は京都で亡くなります。
むかちん