むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記408 紙幣に登場してきた歴史の偉人たち③ 自由民権運動の主導者~板垣退助

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は紙幣に登場してきた歴史の偉人たちシリーズの第三弾!!!

 

自由民権運動を主導した土佐藩

 

板垣退助(1837-1919)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

ITAGAKI Taisuke.jpg

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%80%80%E5%8A%A9

 

板垣退助は、1837年に土佐藩上士の嫡男として、今の高知県に誕生します。

子ども時代はわんぱくそのものだったようで、そのためなのか、高知城下への禁足を命ぜられ、村にいたので、多くの庶民と交わる機会を得ます。

 

この親交がのちの自由民権運動へとつながっていると言われています。

 

1861年、江戸留守居役兼軍備御用を仰せつけられ、土佐藩から江戸へ向かうことになります。

 

板垣は尊王攘夷を唱え、土佐藩士としてはめずらしく一貫して武力討伐を主張していました。

1867年には脱藩の罪を許されたばかりの中岡慎太郎と会って、京都の料亭で武力討伐の議論を交わしました。

 

さらに中岡の仲介で、京都の小松帯刀邸で薩摩藩の西郷吉之助(のちの隆盛)とも武力討伐を議論し、ここで、薩摩と土佐間での軍事密約、薩土密約が結ばれます。

 

そしてついに1868年、戊辰戦争が勃発。

土佐勤王党の流れを組む隊士を集めた総督として、これを指揮し、東山道先鋒総督府の参謀として従軍します。

 

甲州勝沼の戦いでは近藤勇率いる新選組を撃破し、東北戦争では三春藩無血開城させるなど功績を上げます。

 

明治維新において功績を上げてきた板垣ですが、徹底して公正な価値観の持主であったため、

官軍の将でありながら、維新後すぐから賊軍となってしまった会津藩の心情をおもんぱかって、名誉回復に努めることに尽力し、会津から土佐へ感謝の気持ちが送られました。

 

明治政府では要職を務め、参議になりますが、朝鮮の無礼に対し、西郷とともに征韓論を主張、これは穏健派の岩倉具視と対立し、征韓論は反故にされてしまうため、

憤慨した板垣や西郷は下野します。

 

民衆は板垣や西郷を支持し、これによって板垣や土佐派の官僚が自由民権運動を唱える契機となります。

 

1874年、愛国公党を結成。

高知に立志社の設立。

1875年には民衆の意見が反映される政治を目指して、議会制政治を目指し、自由民権運動に身を投じます。

 

1881年には10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成し、党首となります。

全国を遊説して回りますが、岐阜で暴漢に襲われ、ここで板垣が述べた「吾死するとも自由は死せん」というのが、のちに「板垣死すとも自由は死せず」と広まります。

 

1884年自由民権運動の激化により、加波山事件などの暗殺未遂事件も起き、自由党は一旦解散されます。

 

しかし1890年の帝国議会の開設後には、自由党各派をまとめあげ、立憲自由党を再興します。

 

1898年には対立していた大隈重信の進歩党と合同し、憲政党を組織して、日本初の政党内閣である大隈内閣で、内務大臣として、板垣は入閣します。

しかし、この内閣は内紛が激しく、4か月で総辞職し、1900年立憲政友会の創設とともに板垣は政界を引退をします。

 

そして、1919年、板垣は逝去します。82歳でした。