むかちんの歴史日記

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むかちん歴史日記473 逆境こそチャンス!反骨を乗り越えてきた偉人・経営者・政治家③ ファシズムに抵抗し続けた不屈の政治家~斎藤隆夫

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は逆境こそチャンス!反骨を乗り越えてきた偉人・経営者・政治家シリーズの第三弾!

 

日本のファシズムに抵抗し続けた不屈の政治家

 

斎藤隆夫(1870-1949)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%9A%86%E5%A4%AB

 

斎藤隆夫は1870年、現在の兵庫県豊岡市に誕生します。

21歳の冬に東京まで徒歩で移動し、徳島県知事の桜井勉の書生となります。

1891年に東京専門学校(現在の早稲田大学)行政科に入り、1894年首席卒業。

1895年には弁護士試験にも合格し、アメリカのイェール大学へ留学して公法や政治学などを学びます。

 

帰国後の1912年、立憲国民党より総選挙に出馬して、初当選し、1949年までで当選13回します。

 

斎藤は浜口雄幸内閣で内務政務次官、第二次若槻礼次郎内閣で法制局長官を歴任し、普通選挙法導入前には衆議院本会議で、普通選挙法賛成演説を行いました。

 

斎藤は1936年に軍部革正を求めるいわゆる「粛軍演説」を行い、軍部の政治への介入を批判し、軍から圧力を受けることになるのですが、それにも屈せず、1940年、有名な「反軍演説」を行います。

 

この「反軍演説」は「支那事変処理に関する質問演説」と呼ばれ、日中戦争をどのように終わらせるのかを当時の米内光政首相に質したものでした。

 

一部ではありますが、その演説を抜粋します。

(抜粋元:http://agora-web.jp/archives/2033911.html

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世界の歴史は全く戦争の歴史である。現在世界の歴史から、戦争を取り除いたならば、残る何物があるか。そうして一たび戦争が起こりましたならば、もはや問題は正邪曲直の争いではない。是非善悪の争いではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。

強者が弱者を征服する、これが戦争である。正義が不正義を贋懲する、これが戦争という意味でない。

力の伴わざるところの正義は弾丸なき大砲と同じことである。羊の正義論は狼の前には三文の値打もない。ヨーロッパの現状は幾多の実例を我々の前に示しているのであります。

 

かの欧米のキリスト教国、これをご覧なさい。彼らは内にあっては十字架の前に頭を下げておりますけれども、ひとたび国際問題に直面致しますと、キリストの信条も慈善博愛も一切蹴散らかしてしまって、弱肉強食の修羅道に向って猛進をする。

これが即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります。この現実を無視して、ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲を掴むような文字を列べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことかありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない。

 

事変以来、我が国民は実に従順であります。言論の圧迫に遭って国民的意思、国民的感情をも披瀝することが出来ない。ことに近年中央地方を通じて、全国に弥漫しておりますところのかの官僚政治の弊害には、悲憤の涙を流しながらも黙々として政府の命令に服従する。政府の統制に服従するのは何がためであるか、一つは国を愛するためであります。また一つは政府が適当に事変を解決してくれるであろうことを期待しているがためである。

 

しかるにもし一朝この期待が裏切らるることがあったならばどうであるか、国民心理に及ぼす影響は実に容易ならざるものがある。しかもこのことが、国民が選挙し国民を代表し、国民的勢力を中心として解決せらるるならばなお忍ぶべしといえども、事実全く反対の場合が起こったとしたならば、国民は実に失望のどん底に蹴落とされるのであります。国を率いるところの政治家はここに目を着けなければならぬ

 

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斎藤はこの演説からもわかるように、国民の多大な犠牲を伴って、戦う必要があるのか、どれだけ多くの犠牲をかけるつもりかを真摯に考えて、問いかけました。

 

「聖戦」という言葉を使って戦争を正当化し、政治家は事変を解決することなく、辞任していく。責任を取らない。

国家の存亡にかかわることを見誤るのは死んでも政治家はその罪を償うことができないということを主張しています。

 

斎藤は民政党から離党勧告を受け、党を離党、後日、懲罰委員会にかけられますが、懲罰理由をすべて論破して、委員を黙らせます。

 

結局、斎藤は衆院本会議で賛成多数により、除名されてしまうのですが、1942年の総選挙であらゆる妨害をはねのけて、衆院議員に返り咲きます。

 

第二次大戦が終結し、1945年日本進歩党の創立に発起人として参画し、多くの議員が公職追放される中、斎藤はそれを免れて党を代表する立場となり、1946年、第一次吉田茂内閣の国務大臣として初入閣します。

 

1947年には民主党の創設にも参加し、1948年には一部民主党議員とともに日本自由党と合体して、民主自由党を創設します。

 

1949年死去。79歳でした。

 

むかちん