むかちんの歴史日記

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むかちん歴史日記433 父と呼ばれた日本の偉人③ 日本議会政治の父~尾崎行雄

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は父と呼ばれた日本の偉人シリーズの第三弾!!

 

日本議会政治の父と呼ばれ、当選回数や議員勤続年数の最高記録を誇る

 

尾崎行雄(1858-1954)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

Yukio Ozaki.jpg

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E8%A1%8C%E9%9B%84

 

尾崎行雄は1858年に現在の神奈川県相模原市に生まれます。

尾崎家の先祖は今川義元の家来で、武田信玄に攻め立てられて没落しました。

 

尾崎は11歳まで故郷で過ごし、1868年に父に従って、番町の国学者平田篤胤の子・鉄胤が開いていた平田塾にて学び、その後、1871 年に高崎に引っ越して、地元の英学校にて英語を学びます。

 

1874年、弟とともに上京し、「日本一の学校」と当時名声を得ていた慶應義塾童児局に入るや否や、塾長の福澤諭吉に認められ、十二級の最下級から最上級生となります。

 

その後は工学寮(現在の東京大学工学部)に再入学などしたが、馴染めずに慶應義塾に戻り、1879年には福沢諭吉の推薦で新潟新聞の主筆になります。

 

1882年、報知新聞の論説委員になって、立憲改進党の創設に参加しますが、大隈重信の奇妙な脱党に不信感を覚えます。

1883年には最年少で東京府議会議員となり、政府の条約改正案に対して、強い反対運動を起こして、反欧化主義の急先鋒となります。

クーデターを計画し始めた尾崎は保安条例によって東京から退去処分を受けます。

 

父が三重県の伊勢で余生を送っていた縁故から、1890年の第一回衆議院議員総選挙三重県選挙区から出馬し当選。以後63年間、連続25回当選という世界記録を樹立します。

 

1898年、初の政党内閣である大隈重信を首相として板垣退助を内務大臣として迎えたいわゆる隈板内閣で、40歳の若さで文部大臣として入閣。

このころには「政界の麒麟児」と言われ、注目を集める存在となっていました。

 

1903年から1912年には東京市長に就任。

 

このころの時代背景として、日本の政治は元老と呼ばれる9人の実力者によって牛耳られていました。それが山縣有朋井上馨松方正義西郷従道大山巌西園寺公望桂太郎黒田清隆伊藤博文の9名で、

このうち西園寺以外は倒幕の中心となった薩摩藩長州藩の出身者で、

法的な規定は無かったが、首相を決定することができる権限を持っていた人物たちで、いわゆる藩閥政治を形成していました。

 

これに対して、尾崎はこうした藩閥政治を打倒して、憲法に基づく民主的な政治を打ち立てる運動、いわゆる憲政擁護運動を巻き起こします。そしてついに桂太郎内閣を倒閣するにまで至りました。

 

第一次大戦後は大正デモクラシーの本格化に伴い、普通選挙運動の参加と婦人参政権運動を支持し、軍国化への抵抗を行ったため、次第に政界では孤立していきます。

 

1931年の満州事変の勃発後、軍部の介入が相次ぎ、五・一五事件犬養毅が暗殺されると政党内閣は終焉、その後、大政翼賛会の結成や東条英機内閣が組閣されると、尾崎は議会政治に見切りをつけて山荘にこもり、ほとんど上京しませんでした。

 

戦後、自身の健康問題と支持者の高齢化により1953年のバカヤロー解散で落選し、政界を引退します。94歳まで衆議院議員を務めたのは日本史上最高齢記録であり、当選25回・議員勤続63年も同じく日本記録でした。

 

1954年、直腸がんにより95歳で亡くなります。

 

むかちん