むかちん歴史日記450 日本の歴史小説で扱われた人物たち⑤ 戦争防止に努めた悲劇の元宰相~広田弘毅
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(((o(*゚▽゚*)o)))
今日は日本の歴史小説で扱われた人物たちシリーズの第5弾!!
戦争防止に努めて、最期は軍人とともに死刑となった悲劇の元宰相
広田弘毅(1878-1948)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85
参照元 https://www.amazon.co.jp/%E8%90%BD%E6%97%A5%E7%87%83%E3%82%86-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%9F%8E%E5%B1%B1-%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4101133182
◆広田は1878年、福岡の石工の息子として誕生します。
福岡県立修猷館に入学し、のちに日本最古の右翼団体ともいわれる玄洋社に入社します。
広田は当初、家計へ負担をかけまいと陸軍士官学校へ入るつもりでしたが、1895年の三国干渉を目の当たりにして、外交官を志すようになります。
講道館に入り、中国・朝鮮を視察したり、日露戦争時に捕虜収容所で、ロシア語の通訳を行いました。
1905年、高等文官試験外交科をうけますが、英語が苦手で落第、翌1906年の試験は首席で合格します。同期には吉田茂もいました。
1907年に北京、その後ロンドンに赴任。
1923年、第二次山本内閣が発足するにあたり、欧米局長に就任します。
1925年、23歳のときに「幣原外交」をもとに各国政府に伝え、「外務省には幣原、出淵、広田の3人の大臣がいる」と言われるほどでありました。
1933年、斎藤内閣の外務大臣に就任。
続く岡田内閣でも外務大臣に留任します。
1935年外相の広田は帝国議会で、「私の在任中に戦争は断じてないと云うことを確信致して居ります」と発言して、中国に対する外交姿勢も宥和的なものへと改められました。
中華民国政府は広田らと強い提携関係を結ぶため、中華民国側が3要件を提示しますが
広田はこれには納得せず、広田三原則に直して、要求します。
1936年、二・二六事件がおきると、岡田内閣は総辞職し、広田が首相に主任することになります。
しかし1937年には閣内不統一によって内閣総辞職。
広田はしばらく鵠沼の別荘で恩給生活に入りますが、近衛文麿内閣が発足すると、近衛で要請で外務大臣に就任します。
しかし同年、盧溝橋事件が発生、事変不拡大、現地解決の方針を打ち出したものの、軍部の独走は誰にも止められない状態になっていました。
広田はアメリカ、イギリスを通じて、日中間の和平を画策しますが、陸軍の妨害に遭って、頓挫。その後陸軍は暗殺の標的として狙われるようになり、欧米からは陳謝する広田の姿が、欧米を油断させる作戦の一つと捉えらてしまっていました。
1945年、終戦。
その年の12月は広田は巣鴨拘置所に収監され、むしろ軍人がなぜいるのかと驚いたといいます。
おしどり夫婦と呼ばれた妻が先に服毒自殺します。
これは、広田が死刑判決を受けたとしても、生への未練を軽くしようという妻の優しさでした。広田はこのやさしさを拘置所で感じ、身を震わせます。
1948年、11月。
広田は他の軍人6人とともに絞首刑が言い渡されます。
この不当判決に広田は一切言い訳をしませんでした。
自分が言い訳をすれば、だれかを貶めることになると感じていたからです。
これに対し、7万人以上の減刑の嘆願が行われました。
しかし、この刑が覆ることはありませんでした。
広田は同年12月、絞首刑により、死去。70歳でした。
むかちん