むかちん歴史日記384 歴史上有名な反乱指導者たち④ エジプトの民主化を図った~アフマド・オラービー
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は歴史上有名な反乱指導者たちシリーズの第4弾!!!
英仏によるエジプトの反植民地化からの脱却を目指した
アフマド・オラービー(1841-1911)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC
◆アフマド・オラービーは1841年にエジプトで生まれます。
当時のエジプト軍では、ムハンマド・アリー朝の下、トルコ系が優先され、アラブ系が排除されていましたが、副王サイード・パシャの改革のおかげでアラブ系にも士官学校入学の道が開け、13歳のときに入学します。
サイードに寵愛され、急速に昇進するものの、彼が亡くなると、アラブ系排除の慣例も復活し、オラービーの出世も止まります。
この政策に反発するアラブ系のリーダー的存在となり、1881年、アラブ系軍人に対する差別人事を改めるよう政府に嘆願します。
政府はオラービーを反逆容疑で逮捕しますが、事前にこの動きを察知していたオラービーは彼の部下たちに自らを救出するように言い伝えておきました。
オラービーは間髪いれず副王タウフィーク・パシャの宮殿を包囲してマハムード・サーミー・アル・バールーディーを陸軍大臣に任命させました。
しかし、オラービーの増長を恐れたタウフィークはバールディーを解任。
これに対抗してオラービーが再び国王の宮殿を包囲し、軍内の人事にとどまらず、現内閣の更迭、議会の招集、憲法の制定などを要求します。
タウフィークはこれに屈服して、1881年にはエジプト史上初めての憲法草案が議会で諮られました。
オラービーに対して、エジプトの債権国であるイギリスとフランスは危機感を抱くようになり、隣国のチュニジアやアルジェリアへの影響を鑑みて、英仏はタウフィークを支持し、憲法の審議を妨害するようになっていきます。
これに対抗するため、英仏を追い出すために、オラービーを陸軍大臣とする民族主義内閣を成立させます。
この民族主義内閣の誕生で、反ヨーロッパ運動が盛り上がります。
しかしついに、イギリスとフランスが軍事介入を開始、オラービーは防壁などを作って必死に応戦しますが、結局敗れ、エジプトはイギリスの支配下に置かれます。
この一連の出来事は「オラービー革命」とよばれるほど、インパクトの大きなものになっていますが、イギリスによって鎮圧されたため、「反乱」とされます。
オラービーは死刑判決を受けるものの、結局、流刑となります。
以降は政治にはかかわることなく1911年、カイロにて死去します。
むかちん