むかちん歴史日記383 歴史上有名な反乱指導者たち③ 厳格な人間性と飢饉解決のために反乱を起こした~大塩平八郎
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は歴史上有名な反乱指導者たちシリーズの第3弾!!!
厳格な人柄で庶民を助けようと蜂起した
大塩平八郎(1793-1837)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 https://edo-g.com/men/view/45
不正を嫌う厳格な大塩平八郎
◆大塩平八郎は1793年に、大阪天満の大坂町奉行所与力を代々務める家系に生まれます。
不正を嫌う厳格な性格で、汚職などを次々に暴くなど辣腕を振るいます。
1830年に与力を辞し、独学で陽明学を学び、自宅で開いていた私塾、洗心洞で子弟を指導していました。
こうして隠居後は学問に専念していくことになります。
天保の大飢饉にあたっても庶民の味方であり続けた
1833年-1834年、1836-1837年、天保の大飢饉の影響が特にひどかったのですが、
1833年からの時期は矢部定兼が大坂西町奉行で、非常に大塩と信頼関係もあり、
また経済の専門家もいたため、これを乗り切ることができましたが、
後者の1836年の時期には矢部は栄転していて、大坂東町奉行の跡部良弼が幕府の機嫌取りのために米を江戸に廻していたため、大坂での米価が高騰、民衆は飢餓に喘ぎます。
大塩は跡部に対して、蔵米(幕府が年貢として収納し、保管する換金前の米)を民に分け与えることや、豪商の買占めをやめさせるなどを進言しましたが、全く聞き入れられませんでした。
京都は餓死者であふれ、大坂に流れてくる者もいたので、非常に治安も悪くなり、
大塩は非常に怒ったとされています。
大塩は蔵書を処分するなどして、私財をなげうって、救済活動にあたりますが、
もはや武装蜂起によって奉行や豪商を討つことでしか、根本的な解決にはならないのではないか、と考えていました。
そして1837年、民衆とともに武装蜂起し、これが大塩平八郎の乱とよばれる反乱でした。
しかし、これは大坂町奉行所に事前に密告されていたため、1日程度で鎮圧されることになります。
その後は逃亡を繰り返し、大坂に戻ってきて潜伏しますが、密告によって幕府方に知られ、大塩は役人に囲まれる中、自害します。享年45歳でした。
むかちん