むかちん歴史日記325 東西をまたにかける歴史的旅行をした偉人⑤ 太平洋を渡り、日本に開国を迫った~マシュー・ペリー
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は、東西をまたにかける歴史的旅行をした偉人シリーズの第5弾!!!
アメリカから艦隊を率いて日本へ開国を迫った
マシュー・ペリー(1794-1858)
を紹介します(*^▽^*)
https://app.k-server.info/history/perry_kaikoku/
◆マシュー・ペリーは1794年、アメリカ、ロードアイランド州ニューポートに誕生します。
1809年には、わずか14歳にして士官候補生の辞令を受けて、海軍に入隊、1812年の米英戦争にも参加します。
1833年には海軍の造船所長となり、1837年にはアメリカ海軍2隻目の蒸気フルゲートフルトンを建造し、同年に海軍大佐に昇進します。
1846年の米墨戦争勃発時には、ミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副指令として、指揮を取り、のちに本国艦隊の総司令官の昇進します
ペリーは蒸気船海軍の父とよばれ、士官教育にも力を注ぎました。
また奴隷の帰国事業に注力し、リベリアではペリーは著名人物です。
その大柄で挨拶や合図が大きな声で威圧的であったため、他の士官からは「熊おやじ」と呼ばれていたそうです。
1852年に東インド艦隊司令長官に就任し、日本開国に向けて交渉するよう依頼する大統領の親書を手渡すよう指令を与えられました。
ペリーの艦隊はアフリカ回りで、マデイラ諸島・ケープタウン・モーリシャス・セイロン・シンガポール・マカオ・香港・上海・琉球(沖縄)を経由して
1853年ついに浦賀(神奈川県)にやってきます。
ここでは具体的なことは行われず、開国の要求のみで、幕府から1年の猶予を求められ、艦隊の食糧事情などもあって、一行は琉球へ寄港します。
太平天国の乱が勃発し、アメリカにとって極東事情が変化していくと
1854年には旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦で横浜市の沖に迫り
早期の条約締結を求めて、揺さぶりをかけ、ついに日米和親条約を結びます。
その足で那覇にも寄港し、琉球修好条約を締結、艦隊は香港に向かいます。
しかし、そこからは体調不良に悩まされ、1855年にニューヨークへ帰着。
晩年は日本遠征記などの出版に力を注ぎますが、アルコール使用障害、痛風、リウマチを患っており、1858年ニューヨークで亡くなります。63歳でした。
◆名言
ーーーーーーーーー
信念を持たない限り、
人に信念を与えることはできない。
ーーーーーーーーー
真理は瀕死の人の唇からもれる。
ーーーーーーーーー
自分で納得行かない限り、
人を納得させることはできない。
ーーーーーーーーー
教養は「世界で言われ、考えられた最上のことを知る」ことである。
ーーーーーーーーー
むかちん