むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん 歴史日記385 歴史上有名な反乱指導者たち⑤ 平成日本政治史における乱を画策した〜加藤紘一

新宿から歴史を発信!!!むかちん です(*´∀`*)

今日は、歴史上有名な反乱指導者たちシリーズの第5弾!!!

平成日本の政治史で有名な未遂の乱を画策したプリンス

加藤紘一(1939-2016)

を紹介します(≧∀≦)


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参照元 
https://www.jimin.jp/election/results/sen_syu45/45_kouho/katou-ko.html


加藤紘一は1939年に愛知県で誕生し、山形県鶴岡市で育ちます。
1952年に父、加藤精三自由党推薦で衆議院議員への当選を果たし、
一家は東京へ移り住むことになります。

1959年に東京大学文科一類に合格し、1964年に外務省へ入省します。

父がなくなり、1972年に跡を継ぐ形で加藤は衆議院議員選挙に立候補します。

加藤は当初田中角栄の派閥からの立候補を模索しますが、山形のほかの議員との兼ね合いもあり、田中と盟友関係にあった大平正芳の大平派から立候補します。

1978年に大平内閣の官房副長官1984年中曽根内閣の防衛庁長官などを歴任します。

1995年の自民党総裁選挙で、加藤は同じ宏池会所属で現職総裁であった河野洋平を支持せず、他派閥の平成研究会所属の橋本龍太郎を支持したことから、宏池会の分裂のきっかけを作ってしまいます。
これにより、加藤は橋本総裁の下で自民党幹事長に就任します。

念願の宏池会会長に就任しますが、1998年に当時の小渕恵三首相の自自公連立の動きに反発し、総裁選に出馬、小渕が勝利すると、冷遇されるようになります。

小渕が死去したのち、森喜朗が首相となりますが、「神の国発言」などで、支持率が低調な森政権を打倒しようという動きを加藤が見せます。

これがいわゆる加藤の乱で、山崎拓率いる山崎派も同調の動きを見せます。

加藤らは野党が提出しようとしている内閣不信任決議案に対して、賛成もしくは欠席する動きを見せます。

しかし、この「加藤の乱」は選挙における党の公認権をちらつかせた、当時の自民党幹事長野中広務によって、加藤派を切り崩され、失敗に終わります。

これが加藤の自民党における凋落を決定づける出来事となり、当時、宏池会のプリンスで、次期総裁として期待されていた加藤がそのレースから脱落し、

挙句、秘書の逮捕による議員辞職します。
そこから、議員に返り咲きするものの、過去の影響力をもつことはなく
YKKと言われた加藤、山崎、小泉純一郎のうち、小泉だけが首相になりました。

2016年、肺炎のため、東京都内で亡くなります。

むかちん