むかちん歴史日記451 映画化された偉人たち① フランス革命に散った反革命の王妃~マリー・アントワネット
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は、映画化された偉人たちシリーズの第一弾!!!
フランス革命で革命派に処刑された悲劇の王妃として描かれる
マリー・アントワネット(1755-1793)
を紹介します(*^▽^*)
参照元 https://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-042.html
参照元 https://www.amazon.co.jp/dp/B000P7VOJY
◆マリー・アントワネットは1755年に、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生します。
(オーストリアの女帝、マリア・テレジアは非常に子だくさんで知られる)
当時のオーストリアの情勢はプロイセンの脅威にさらされていたため、フランスとの結びつきを強めようとしていました。
そのため、フランスののちのルイ16世との政略結婚をマリア・テレジアは企図し、
1770年、マリー・アントワネットは14歳でフランスへ嫁ぎます。
ルイとの結婚はヴェルサイユ宮殿で行われました。
ルイとアントワネットの関係は良好だったようです。
アントワネットは子どもが生まれるまでは賭博などをしていたようで、母であるマリア・テレジアから書簡で戒められていたようですが、効果はなかったようです。
アントワネットの現在まで語り継がれるイメージとしては、ただただ浪費家で豪華な生活を送っているというものかもしれませんが
実際には宮廷内の貧困者のためにカンパを募ったり、子供におもちゃを我慢させたりと母親としてはいい側面があったようです。
1774年、ルイ16世の即位により、王妃となります。
しかし、1789年、フランスの民衆が爆発し、フランス革命が勃発。
この背景には彼女に守られなかった貴族たちがパリで彼女の悪評を立てたことも一因にあって、アントワネットは憎悪の対象となりました。
彼女が最終的には断頭台に散るのは有名な話ですが
これが避けられなかった要因には、彼女自身の信念も大きかったようです。
マリー・アントワネットが過ごした時代は君主主義が当然であり、王権神授説的な「王権は絶対不可侵」という考え方が彼女には根付いていました。
しかも彼女は政治的教育などまったく受けたこともなかったので、それから少しでも外れるものは過激派であり、疎ましい存在でした。
なので、フランス革命も恐怖の存在でしかなかったのです。
一方でフランス革命の当事者たちも念頭にあったのは「君主制」でした。
君主を廃しようとまでは当初考えておらず、「立憲君主制」という憲法を背景にした政治制度を模索していたのです。
情勢を悪化させたのは1791年のヴァレンヌ事件でした。
国王ルイ16世とマリー・アントワネットが逃亡しようとした事件で、この発覚により、国王の権威は失墜し、共和政への道が生まれるのです。
1793年、革命裁判で夫、ルイ16世がギロチンの刑に処されると、アントワネットも裁判にかけられます。
彼女はすべての罪状について無実を主張、裁判は難航しますが、結局、コンコルド広場でギロチンの刑に処せられます。
アントワネットは妹あてに遺書を残します。
内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」と。
これは結局1816年、革命を生き延びた唯一の子、マリー・テレーズが20年以上の時を経て読むことになるのです。
むかちん