むかちん歴史日記347 旅行でみかける歴史的建造物にまつわる人のヒストリー日本編② 室町時代の権勢の象徴、金閣寺~足利義満
新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)
今日は旅行でみかける歴史的建造物にまつわる人のヒストリー日本編の第二弾!!
足利義満(1358-1408)
を紹介します(*^▽^*)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BA%80
◆足利義満は1358年の8月22日に京都で誕生します。
これは偶然にも祖父である足利尊氏が亡くなってからちょうど100日目のことです。
義満が幼少の頃は南北朝の対立が起きており、
幕府をめぐる情勢は深刻な状況で、1361年には細川清など南朝陣営によって京都を占領されてしまいます。
義満もわかずかな家臣に守られて、建仁寺に逃れたのち、
赤松則祐の居城、播磨白幡城への避難を余儀なくされます。
このとき、義満は則祐に教育を受けます。
翌年、北朝陣営が京都を取り戻したため、帰郷します。
1367年、父の義詮が重病に陥ります。
そして同年末に義詮が他界すると、義満が3代将軍として家督を継ぎます。
1370年、京都の守りを強化するために、朝廷から山門公人と呼ばれる延暦寺及びその支配下の諸勢力及びその構成員に対する取り締まり権を与えられ、
1378年には邸宅を北小路室町に移して、幕府の政庁とします。
移転後の幕府はのちに「花の御所」と呼ばれるようになります。
同年、右近衛大将に任ぜられ、その後も内大臣、左大臣に就任して、祖父の尊氏を越える出世を続けます。
1383年には武家として初めて源氏長者と呼ばれる、源氏一族のトップの官位になります。(義満は源氏の末裔)。
また全国的に南朝勢力が衰退してきた1392年に、和平案を後亀山天皇に提示し、58年にわたる朝廷の分裂を終結させるのです。
1393年、義満と対立していた後円融上皇が死去し、自己の権力を確固たるものにした義満は1394年に将軍職を嫡男の足利義持に譲って表向き隠居はしたものの、
政権の実権は握り続けました。
そして同年には太政大臣となり、武家で太政大臣となるのは平清盛についで2人目でした。
1395年に義満は出家しますが、これは公家の頂点に達した義満が残るは寺社支配と考えたからとされます。
◆一方で義満といえば、北山文化を開花させたことで知られ、
西園寺家から譲り受けた京都北山の「北山弟」に、鹿苑寺(通称、金閣寺)を建立します。
https://www.jalan.net/kankou/spt_26101ag2130014551/
1399年の春以降、義満はこの山荘に移り住んで、活動の拠点としていきます。
北山文化と呼ばれますが、北山文化の芸能である猿楽で大成した観阿弥・世阿弥を義満は庇護します。
◆足利義満は中国の明への憧憬が強かったことでも有名で
何度も中国との貿易を試みたものの、明は南朝の懐良親王を貿易相手と認めていたこと
また中国は天皇の臣下とは貿易をしない方針であったため、実らずにいました。
(基本的には中国のスタンスは、天皇も中国の皇帝の臣下であり、そのさらに臣下と貿易をするなどありえなかった)
のちに南北朝は統合され、さらに義満が出家して天皇の臣下という立場ではなくなると
1404年勘合貿易が始まりました。
1408年、義満は病に倒れ、そのまま亡くなります。満49歳でした。
むかちん