むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記446 日本の歴史小説で扱わされた人物たち① 百人一首でも有名な女性天皇~持統天皇

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は、百人一首でも有名な女性天皇

 

持統天皇(645-703)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87

 

参照元 https://www.amazon.co.jp/%E7%82%8E%E3%81%AE%E5%A5%B3%E5%B8%9D-%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87-%E5%AD%A6%E7%A0%94M%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%89%E7%94%B0-%E8%AA%A0%E5%BA%83/dp/4059001228

 

持統天皇は、645年に中大兄皇子(のちの天智天皇)の娘として誕生し、諱を鸕野讚良(うののさらら、うののささら)と言いました。

彼女の母方の祖母、蘇我倉山田石川麻呂は中大兄皇子中臣鎌足の陰謀説もある密告によって自害に追い込まれ、彼女の母はそのショックのあまり、病死し、鸕野讚良は幼いころに母を亡くします。

 

657年、13歳で叔父(中大兄皇子の弟にあたる)の大海人皇子に嫁ぎますが、

中大兄皇子は他の娘たちも大海人皇子に与えます。

 

660年代後半になると、天智天皇大海人皇子を皇太弟として、次期天皇と考えていましたが、671年、自身の息子である大友皇子太政大臣に据えて、自身の後継とする意思を見せ始めました。

 

天智天皇が病床に伏せると、大海人皇子皇位継承大友皇子に譲り、自らは出家して鸕野讚良を伴って、吉野へ去ります。

これは、皇位をあきらめて、、、というわけではなく、天智天皇大海人皇子天皇にする気がなかったことが明白であったからです。

 

しかし、当時は息子よりも同母弟に皇位を譲る方が、息子を継承させるよりも自然な流れでありました。従い、だれもが大海人皇子皇位継承を疑っていませんでしたが、大友皇子皇位を継承する流れとなり、不満を募らす豪族は多かったようです。

 

翌672年に天智天皇崩御し、大友皇子が実質的な権限を握りました。

そして大海人皇子は決起して、壬申の乱を起こします。

これに大海人皇子は勝利し、673年、天武天皇として即位、鸕野讚良は皇后となります。

 

679年、天武天皇と皇后である鸕野讚良、そして皇太子たちは吉野の盟約を交わして互いに争わず協力していくことを約束させます。

これは天武天皇自身の即位に際し、大友皇子を自殺へ追い込んだ背景があり、自身亡きあとそのようなことが起こらぬよう意図したもので、自身の後継は草壁皇子と決めました。

 

685年ごろから天武天皇が病気がちとなり、草壁皇子は年少であったために、鸕野讚良と草壁皇子が共同で統治するようになります。

 

しかし吉野の盟約も束の間、大津皇子の謀反が発覚します。

大津皇子草壁皇子とは異母兄弟でしたが、様々な史料から考察するに、非常に器量がある人物で草壁皇子と比べても能力が高かったと評価される人物でした。

 

彼が草壁皇子に対して謀反を計画していた、という説もあれば、草壁皇子の母である鸕野讚良が事前に大津皇子が野心を抱く芽をつぶしたという説もあります。

いずれにしろ大津皇子は自害に追い込まれてしまいます。

 

ところが689年、草壁皇子が28歳で早世してしまい、鸕野讚良はその子を天皇にすることを望みましたが、まだ7歳という幼子で、皇太子にすることすら、はばかられる年齢であったため、鸕野讚良は自らが持統天皇として即位しました。

 

持統天皇は夫、天武天皇の政策を引き継ぎ、飛鳥浄御原令の制定と藤原京への遷都を行います。また戸籍の作成も行いました。

 

外交面では唐ではなく、朝鮮の新羅と通交し、新羅朝貢を求めました。

新羅は唐への対抗上、日本への朝貢という条件を呑んだとされます。

 

持統天皇を強くサポートした人物に高市皇子がおり、彼は太政大臣にもなっていたので、持統天皇の後継と目されましたが、彼が696年に亡くなってしまうので、697年、15歳となった草壁皇子の息子、軽皇子が皇太子となります。

 

そして同年譲位して、軽皇子文武天皇として即位。

存命中に譲位するのは皇極天皇に続く2例目で、持統は史上初めての上皇となりました。

 

702年、58歳で持統上皇崩御します。

 

むかちん