むかちん歴史日記388 歴史に名高い天皇特集③ 鎌倉幕府執権を討伐しようとした〜後鳥羽天皇(上皇)
新宿から歴史を発信!!!むかちんですヾ(=^▽^=)ノ
今日は、歴史に名高い天皇特集の第三弾!!!
鎌倉幕府執権の討伐のために兵を挙げた
後鳥羽天皇(1180-1239)
を紹介しますヾ(=^▽^=)ノ
参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87
◆後鳥羽天皇は、1180年に高倉天皇の第四皇子として誕生します。
1183年に源氏側の木曽義仲が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神器を持って逃走します。
安徳天皇は平家方の天皇であったため、新たに別の天皇を立てようという動きが起こり、後鳥羽天皇が即位します。
そのため、安徳天皇と後鳥羽天皇は即位の期間が重複するということが起こりました。
神器は持ち去られていたため、後鳥羽天皇は「神器なき即位」ということになりました。
2年ほど、安徳天皇と後鳥羽天皇が重複した期間がありましたが、
三種の神器のうち、宝剣だけは海に沈み、発見されることはありませんでした。
伝統を重視する宮廷社会において、三種の神器での儀式なしに天皇になったことが後鳥羽天皇にとっては終生コンプレックスであったと言われています。
また後鳥羽天皇を批判する際にこの神器が揃っていなかった不徳を指摘されることもあったと言います。
従い、後鳥羽上皇は内外に自身の王権を誇示していく必要がありました。
そして後鳥羽天皇自身も1198年、土御門天皇に譲位し、そこから順徳、仲恭と三代23年に渡って院政を敷きます。
後鳥羽上皇は頼朝なきあとの鎌倉幕府に対しても強硬な姿勢を通しました。
そして1221年、後鳥羽上皇は時の執権、北条義時追討の院宣をだし、有力御家人を動員して承久の乱を起こします。
しかし、幕府の大軍の前に大敗し、後鳥羽上皇は隠岐島に流されます。
そして1239年崩御します。
後鳥羽院は中世の屈指の歌人としても評価されている人物ですが、
無謀な挙兵によって不遇の最期を遂げるのです。
むかちん