むかちんの歴史日記

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むかちん歴史日記166 日本の強い女性たちシリーズ① 元祖女傑!尼将軍~北条政子

新宿から歴史を発信!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日からは日本の強い女性たちシリーズ!!ということで

第一弾は、元祖女傑にして、尼将軍

 

北条政子(1157-1225)

 

を紹介します。

 

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参照元 

https://matome.naver.jp/odai/2143445090110444301/2143445425812971903

 

北条政子といえば、中学や高校の歴史の授業でおなじみの、

源頼朝の妻にして、尼将軍と呼ばれた女傑ですが、

 

政子はもともと、伊豆国の豪族の家の出身で、父時政は在庁官人でした。

源頼朝平治の乱平氏に敗れて、伊豆に流されてきていました。

 

時政は頼朝の監視役であったのですが、大番役であったので、在京している間に

政子と頼朝は恋仲になってしまうのです。

ドラマのような話ですが・・。

 

時政は二人の婚姻には大反対しますが、最終的には認め、北条氏は頼朝の後援者となります。

 

1180年に以仁王が平家打倒のため挙兵、頼朝にも呼びかけますが、慎重な頼朝はすぐには挙兵しませんでした。

しかし、以仁王の計画は露見し、敗死。頼朝の身にも危険が迫り、挙兵をせざるをえなくなります。

石橋山の戦いで敗れ、安房国に逃れて再挙。富士川の戦いで勝利を収め、頼朝は東国の主となり、鎌倉殿と呼ばれるようになります。政子もまた御台所とよばれるようになりました。

 

北条政子の特徴といえば、当時の一夫多妻制のなかではとても珍しく、非常に嫉妬深い性格であったと言われています。

当時の貴族や有力な武家は多くの妾をもって子供を産ませて子孫繁栄していくのが通例であったが、

政子は夫の頼朝がそういった行為をすることを容認できなかったようであり、

政子が嫉妬のあまり、頼朝の妾の邸宅を襲撃させたのは有名な逸話です。

 

◆1185年に壇之浦の戦いで平家が滅亡すると、1192年に頼朝は征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府が成立します。

しかし1199年、頼朝が急死すると、18歳の頼家が世継ぎとなりますが、

頼家は頼朝のころからの宿臣たちを疎み、自らの側近の比企氏を重用したため、御家人たちの不満が鬱積していきます。

 

これを見た政子が頼家を幽閉、比企氏を誅殺します。また後妻と共謀して、権力を奪取しようとした父、時政も幽閉します。

政子としては親族、肉親を幽閉するのは重い決断であったことではありますが

鎌倉幕府を守っていくために冷徹に徹します。

 

頼家のあとを弟の実朝が継ぎますが、実朝が暗殺されると、頼朝直系が断絶するという事態に陥ります。

 

鎌倉は京都の摂関家から将軍を迎え入れることとし、まだ2歳の三寅を迎え入れますが、幼児であったため、政子が将軍職を代行します。

ここから政子が「尼将軍」と呼ばれるようになりました。

 

この混乱を好機とみたのが、朝廷で、後鳥羽上皇は挙兵して、倒幕を目指します。これがいわゆる承久の乱です。

 

このとき、幕府の御家人たちはとてもうろたえるのですが

ここで北条政子が演説をするのです。

 

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皆、心を一にして奉(うけたまわ)るべし。
これ最期の詞(ことば)なり。
故右大将軍(こ・うだいしょうぐん)、朝敵(ちょうてき)を征罰(せいばつ)し、関東を草創してより、このかた、官位と云ひ俸禄と云ひ、その恩すでに山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。  
報謝の志浅からんや。
しかるに今 逆臣の讒(ざん)によって、非義(ひぎ)の綸旨(りんじ)を下さる。
名を惜しむの族(やから)は、早く秀康(ひでやす)、胤義(たねよし)らを討ち取り
三代将軍の遺跡(ゆいせき)を全(まっと)うすべし。
ただし、院中に参ぜんと欲する者は、只今申し切るべし。

 

【訳】
みな、心を一つにして聞きなさい。
これは私の最後の言葉です。
源頼朝殿が、平家一門の朝敵を滅ぼし、ここ、関東にわれわれの幕府を作った。
それ以来、皆の官位は上がり、収入も増えた。
それもこれもすべては頼朝殿のお陰である。
その恩は山よりも高く海よりも深い。
しかし、今、その恩を忘れ、天皇上皇をたぶらかす者があらわれ、朝廷より理不尽な幕府討伐命令が出された。
「名こそ惜しむ者」は、朝廷側についた藤原秀康・三浦胤義らを早々に討ち取り、三代に亘る源氏将軍の恩に報いなさい。
さあ、もし、この中に朝廷側につこうと言う者がいるのなら、今すぐ名乗り出なさい。

 

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これに御家人たちは結束、承久の乱で勝利を収めるのです。

日本では演説が少ないといわれますが、数少ない日本史上有名な演説がこの北条政子の演説なのです。

 

こうして実権を掌握した北条政子ですが、1225年病床に伏し、亡くなります。69歳でした。

 

 

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むかちん