むかちんの歴史日記

歴史大好き男による歴史のあるあるやトリビアを綴る日記★

むかちん歴史日記445 世界の歴史小説の題材となった人物⑤ イタリア・ファシズムの代表格~ムッソリーニ

新宿から歴史を発信!!!むかちんです(≧▽≦)

 

今日は、世界の歴史小説の題材となった人物シリーズの第5弾!!!

 

イタリア・ファシズムの代表格

 

ムッソリーニ(1883-1945)

 

を紹介します(*^▽^*)

 

Benito Mussolini (primo piano).jpg

参照元 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B

 

参照元 https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A0%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B-%E4%B8%80%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%8E-%E3%83%B4%E3%83%AB%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%BF/dp/4480098070

 

 

ムッソリーニは1883年、サヴォイア朝イタリア王国に鍛冶師の父と教師の母との間で長男として誕生します。

 

ムッソリーニの父親は熱心な社会主義者で、第二インターナショナルのメンバーであり、社会主義無政府主義と共和主義が入り混じった独特な思想を持ち合わせていました。

ムッソリーニはその父から強い影響を受けて、社会主義や共和主義へと傾倒していき、後年もそこに変わりはありませんでした。

 

1901年に師範学校を首席卒業し、イタリアの小さな町に教師として赴任しますが、のち退職、スイスへと移住します。

スイスでは貧しい生活を送っていたムッソリーニですが、そこでウラジミール・レーニンとその秘書、アンジェリカ・バラバーノフと出会ったことがムッソリーニに大きな影響を与えます。

 

レーニンの狂信的な支持者であったバラバーノフから徹底的にマルクス主義、及びレーニンがそのマルクス主義に独自の解釈を加えて成立したマルクス・レーニン主義についての教育を受け、社会主義理論について、完全な知識をムッソリーニは得ます。

 

1905年、イタリアに帰国したムッソリーニは自ら兵役に応じ、1906年に除隊、教師として復帰し、1907年にはボローニャ大学で外国語(フランス語)の教員免許を取得します。

 

1909年ー1910年ごろから政治活動に専念するようになりますが、社会党の方向性を全面的に支持していたわけではありませんでした。

彼はマルクス主義決定論社会民主主義改良主義の挫折によって社会主義全体が道を失い始めていると感じていました。

 

社会党指導部が掲げる社会民主主義に基づいた議会制民主主義には特に明確な反対姿勢を持っており、党内穏健派と対立して、離党をするも追随する者は現れず、孤立する結果となります。

このムッソリーニの苦境を救ったのが、イタリア・トルコ戦争でした。

 

ムッソリーニはこれを不毛な植民地戦争と断じ、政府に傾倒していく社会党指導部を批判、今の国内体制を打倒すべきという主張に当時の社会党指導部に不満を持っていた社会党員から再評価を受けます。

 

急進派が勢いづいて、社会党を掌握していき、ムッソリーニへの支持は広がる一方、

古参の幹部からは抑える動きも出てきます。

そして1913年のイタリア普通選挙で、ムッソリーニが指揮する社会党が躍進し、確固たる地位を確立することになるのです。

 

1915年、イタリアが秘密協定に基づいて、第一次世界大戦に連合国軍の側で参戦すると、ムッソリーニは従軍、しかも大けがを負いますが、この負傷中にのちの主君で国王のヴィットーリオ・エマヌエーレと初めて会うことになります。

 

第一次世界大戦終結後は同じ退役軍人を集めて、イタリア戦闘者ファッシ及び国家ファシスト党(PNF)を結党し、そのドゥーチェ(統領)となり、全体主義と革命的サンディカリズムなどを複合させて、新たな政治理論、ファシズムを生み出します。

 

1922年、ローマ進軍によって首相に選定され、1925年実質的な独裁体制を敷きます。

 

1936年にはエチオピア帝国を征服。

ムッソリーニは十数年にわたる長期政権を築きます。

彼の運命を大きく変えたのは第二次世界大戦への参戦でした。

 

第一次世界大戦のように泥沼化することへの危惧や世界恐慌による軍備の脆弱化から一旦中立を守っていましたが、フランスが一か月という短期間で降伏に追い込まれると、準備不足の中、日独伊三国同盟の一角として、第二次世界大戦へ参戦していきます。

 

1943年、連合軍の本土上陸に伴う危機感からファシスト党内でクーデターが発生して失脚し、一時幽閉の身となりますが、ナチスヒトラーの命令によって救出されます。

胃がんでの健康状態の不安から一時政界を引退しますが、ヒトラーの要請により表舞台に復帰、

ドイツの衛星国として建国されたイタリア社会共和国(RSI)及び共和ファシスト党(PFR)の指導者を務めますが、枢軸軍の完全な敗戦に伴い再び失脚します。

 

1945年、イタリア国内のパルチザンに拘束され、法的根拠を持たない略式裁判によって、ムッソリーニは銃殺されます。61歳でした。

 

 

むかちん